戦後の金融市場

戦後日本の金融市場

リーディング産業※をメインバンクとして支え、戦後日本の経済成長に大きな役割を果たした『銀行』。
※リーディング産業とは、国や地域の経済発展を主導していく中核的な産業の事で、戦後日本においては石炭産業などのエネルギー部門など
敗戦後財閥解体の流れが一段落した後、日本の金融界は長い安定期に入った。
しかし、バブル経済の崩壊とそれに続く不良債権問題、平成9年に始まった「金融ビッグバン」の渦中で金融界の再編が行われ、競争力のない銀行が淘汰される一方、合併によってメガバングが誕生した。

  1. 高度経済成長後から平成に入るまで、「都銀13行時代」が長く続いた
  2. 平成9年に始まる「金融ビッグバン」の流れのなかで、金融界再編が劇的に行われた
  3. 変動相場制移行後の外国為替相場は、ドル・ポンド・フランに対して円高が進んだ

戦後日本の金融年表

出来事
1946年(昭和21)財閥解体
GHQによる経済民主化政策の一環で、戦前からの財閥解体が行われた。旧財閥系銀行は、分割こそ免れたものの、行名を変更する事になった
安田銀行→富士銀行、帝国銀行→第一銀行・三井銀行、などが行名を変更した
1949年(昭和24)1ドル=360円時代
GHQは1ドル=360円と定めた。以後22年(昭和46年まで)に渡り、この固定相場制度が維持された
1951〜55年(昭和26〜30) 普通銀行への転換
戦前の特殊銀行の普通銀行への転換が進む。小口預金を中心に扱う貯蓄銀行の一つの日本貯蓄銀行は、協和銀行として新発足
行名再変更
旧財閥系銀行が相次いで旧名を復活させるなか、富士銀行は預金の順調な伸びもあり、安田銀行には戻さず
1967年(昭和42)資本の自由化
外資系企業の進出など、外国から日本への直接投資が自由化。金融制度の在り方が再検討される事に。
1971年(昭和46)ニクソン・ショック
8月15日、米国のニクソン大統領は「新経済政策」を掲げて金ドル交換の停止を発表した。同年12月のスミソニアン合意により、1ドルは308円に切り上げられる事になった
1984年(昭和59)日米円ドル委員会
日本の金融市場の自由化・円の国際化を進める為に、日米財務当局者により開催
1985年(昭和60)プラザ合意
ドル高是正のため、主要先進五カ国が為替市場に協調介入を実施する事を合意
1987年(昭和62)ルーブル合意
米国以外の主要先進国が協調利下げを行う事で、取るの安定を目指した。日本経済のバブル化の前提となった。
1989〜98年(平成1〜10)金融危機
バブル崩壊以降、金融界は深刻な不良債権問題に悩まされる。平成3〜12年の間に、北海道拓殖銀行をはじめとして124もの金融機関が破綻した
1995年(平成7)超円高
米国のクリントン大統領による「円高容認発言(平成5年)」の影響で円はさらに上昇し、4月19日、1ドル=79.75円を記録した。

経済成長を支えた銀行

主要産業の発展の陰には、常に銀行の存在があった。
“経済の血液”は、戦後の日本を如何に流れていったのかを見てみる。

産業界との二人三脚

主要企業は資産の4割を銀行に借りていた

昭和30年代の日本の高度経済成長を、側面から支え続けたのが銀行である。
当時の主要企業は、必要な資金の多くを銀行からの借り入れによって調達していた。
例えば昭和32年(1957)から34年では、総資産に占める借入金の割合は39.9%にも上っている。

銀行も貸出の半分を主要企業に

一方、銀行側も、貸し出しの約半分を、当時の主要産業であった鉄鋼・造船などの製造業に振り分けていた。
このようにして日本経済は未曾有の発展を遂げ、当時、米国に次ぐ世界第二位の経済大国となっていた。
まさに産業界と銀行が二人三脚で歩んでいたのが、高度経済成長時代だったといえる。

企業が株を発行し、銀行のマネが可能になる

ところが昭和50年代の後半、商法の改正と金融自由化によって、企業は多様な資金調達方法を手にした。
社会的に信用度の高い大企業社債や株式を発行し、市場から直接資金を調達する様になると、銀行は新たな貸出先として、不動産業や中小企業、個人を対象にし始める。
その結果、バブルと呼ばれた株価や地価の急上昇が始まった。

“金の流れ”が“急加速”し“急減速”

上昇した株価や地価を担保にさらに融資を増やし、益々その上昇を招くという、まさに実態のない“バブル”を形成したのである。
急騰した地価を抑制する為に、平成2年(1990)に土地関連融資に対する総量規制が実施されると、翌年地価が下落に転じてバブルは崩壊した。
その後、多くの金融機関は、バブル期の融資が焦げ付いて生まれた不良債権に、長く苦しめられる事になる。

メガバンクの誕生

メガバンクとは?

メガバンクあるいは巨大銀行とは、預金残高が極めて莫大な都市銀行のことである。

経営難を克服するため、銀行の合併が相次ぐ

長引く不況の中で、不良債権問題が深刻化して以降、単独での生き残りは困難と見た銀行の間で、大型合併が相次いだ。
平成11年(1999)8月、日本興業銀行・第一勧業銀行・富士銀行が経営統合を発表し『みずほ銀行』となった。
続けて10月には、住友銀行とさくら銀行の合併し『三井住友銀行』となる。
日本の銀行は横並び意識が強いといわれ、他の銀行も対抗して合併を行う事となり、平成15年までに合併が合併を呼ぶ銀行再編が行われた。
その結果、日本の銀行界はそれまでの財閥の壁が壊されて、みずほ・三井純友・三菱・UFJの4大メガバンクが支配する時代となる。
2019年現在では、三菱とUFJが経営統合され、三菱UFJが発足、3大メガバンクになっている。

証券・保険市場の拡大

証券不況からバブル経済へ

日本復興と合わせて株価上昇

戦後、GHQの許可に基づいて証券取引所が再開されたのは、昭和24年(1949)5月の事である。
当時の日経平均株価は、わずか100円程度に過ぎなかった。
その後に起こった朝鮮戦争(昭和25〜28)による特需景気、神武景気(昭和30〜32)、岩戸景気(昭和33〜36)などを経て、日本経済の復興と歩調を合わせて、株価は上昇していく。

「証券不況」の到来

順調に上がり続けた株価は、昭和37年以降、下落に転じる事になる。
この「証券不況」のなかで証券会社の経営が悪化。
昭和40年には、経営不振の山一證券(1897〜1997)、大井証券(1947〜1968)に対して、日本銀行が事実上無担保・無制限の特別融資(日銀特融)を行う事態となった。
だがそれも、いざなぎ景気(昭和40〜45)を迎えた事で収まり、再び株価は上昇基調を取り戻した。

「バブル経済」の到来

昭和から平成に掛けて証券市場に大きな変化が起こる「バブル経済」の到来であった。
昭和60年のプラザ合意以降、公定歩合2.5%という当時最低水準の低金利のなかで、証券市場は膨張を始める。
それがピークに達した平成元年(1989)、日経平均株価は、3万8915円という史上最高値を記録した。

バブルがはじけ「平成不況」に

そのバブルも平成2年以降に崩壊し、日本経済は長い「平成不況」を迎える事になる。
平成9年には、多額の損失を抱えた山一證券が自主廃業に追い込まれた。
それ以降、平成12年頃の「ITバブル」期を除き、株式市場は長い低調に陥る事になる。

戦後日本の保険市場

生命保険事情

戦後数年間、生命保険事情の経営は非常に厳しく、契約維持の為の事務費が不足する程の状態であった。
それが、高度経済成長という追い風に乗って、昭和20年代後半以降、保険契約者に支払われる保険金の総額である保険契約高は、急速に増加を続ける。
そして昭和62年(1987)には、年度末保有契約高で、日本は米国を抜き、世界一の生命保険普及国となった。(しかし、バブル崩壊後、生命保険会社の破綻が相次ぎ、日本の生命保険会社の国際的地位も大きく低下した)

損害保険事情

一方、損害保険事情も、戦災で家屋が焼失した事によって、被保険物件が大幅減少するという厳しい状況からのスタートとなった。
しかし、こちらもやはり高度経済成長と社会の発展の波に乗って、昭和30年代以降、保険契約高は急速に増加していった。
この間、損害保険の主役は火災保険から自動車保険へと交代した。


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