航空機の普及

戦後の航空機の普及

戦後の日本では、高度経済成長期に呼応するように航空路線網は拡大していった。
その勢いは、鉄道網高速道路網の発展を追い越す程であった。

航空路線網の拡大

五輪後、航空機利用が徐々に一般化

昭和30年(1955)ごろ、航空機の運賃はまだまだ高く、庶民が飛行機に乗る事はほぼなかった。
その後、人々の生活が変化するなか、航空機は徐々に交通手段として用いられるようになり、東京オリンピック1964以降は国内旅行でも航空機を利用する事が珍しくなくなっていった。

高度経済成長期以降、全国で空港が建設

高度経済成長期以降は、全国各地で空港建設が進展し、昭和45年に57だった空港数は、現在1.5倍以上にまで増加している。
近年でも地域活性化の一環として全国各地で空港が建設され、観光客誘致に一役買っている。
このように、利用客の増加は、人々の生活が豊かになったという事だけでなく、航空路線拡大の効果でもあった。

ジェット機の登場

ジェット機の登場によって、各地の航空路線はより大量の旅客を、安い運賃で輸送する事が可能となり、航空機利用は身近なモノになった。
また、ジェット機の就航は、大幅な時間短縮をもたらした。
例えばそれまで約4時間掛かっていた東京〜札幌間は、半分の2時間に短縮した。
その結果、昭和44年、約170万人であった東京〜札幌間の利用客数は、昭和53年には400万人を超え、アメリカ国内線のボストン〜ニューヨーク間の利用客数を抜いて、世界一利用客の多い航空路線となったのである。

路線網・利用客の増加で空港も変化

その後、幹線を中心とする路線網の拡大や利用客の増加によって、羽田、伊丹といった大都市にある既存の空港では、滑走路、運航ともに限界に達した。
また、アジア諸国との間で基幹空港としての拠点を巡る競争が激化するなか、平成以降、羽田の滑走路延長、関西国際空港の開業など、新たに巨大空港も誕生している。
平成17年には中部国際空港(セントレア)も開業した。

国産初の旅客機「YS-11」

戦後、日本の航空機製造はGHQによって禁止されていた。
昭和27年にその禁止が解かれた後、政府の支援を受けた三菱重工などの6社によって、昭和30年代前半から国産旅客機の共同開発が始まった。
その記念すべき第1号が、国産初の旅客機「YS-11」である。

YS-11

国産初の旅客機「YS-11」(奥:昭和37年)
サンフランシスコ平和条約の締結によって禁止されていた航空機生産が昭和27年に再開された

時速500q未満のゆっくり飛行

昭和40年、日本国内航空(後の日本エアシステム、現在は日本航空に統合)の東京〜徳島〜高知間に初めて利用され、その後、多くの路線に就航した。
YS-11は、短い滑走路での離発着が可能だったため、滑走路が整備されないローカル路線でも活躍し、日本の空を代表する旅客機となった。
しかし、時速500qに満たず、現在のジェット機と比べて速度が約半分であった。
所要時間が掛かる事から、昭和30年代には、「ムーンライト」「オーロラ」といった夜行便も東京〜福岡、東京〜札幌間を飛んでいた。

YS-11

滑走路を飛び立つYS-11の量産1号機

現在では引退

昭和40年代後半以降、ジェット機の就航が増加し、YS-11は、ローカル路線に活躍の場を移す事になった。
昭和48年には製造が打ち切りとなるものの、他の航空機よりも格段に丈夫に出来ているため耐用年数も長く、その後も日本の空で活躍を続けた。
鹿児島県の離島を中心に、日本エアコミューターで使用された。
平成18年のフライトを最後に、YS-11は引退する事となった。
海上保安庁で使われていた機体は平成23年に退役し、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されていた。
また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。


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