混乱したヨーロッパ情勢を収拾するウィーン会議は、大国優先の国際秩序を選択し、ウィーン体制を築いた。
これによってヨーロッパは、自由主義を抑え、大国による伝統的体制を守る、フランス革命以前の体制に逆戻りした。
しかし、自由主義の台頭は抑えられず、各地でウィーン体制を揺るがす運動が起こる。
1814年にフランスのナポレオンが退位すると、フランス革命以来の混乱を収拾するため、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの代表が参加し、ウィーン会議が開かれた。
オーストリアの外相メッテルニヒが議長を務めたこの会議は、各国の領土的野心が交錯し、「会議は踊る、されど進まず。」と評されたように、紛糾を極めた。
フランス代表タレーランはこの状況を利用して、ヨーロッパをフランス革命以前の政治体制と国際秩序に戻すべきとする正統主義を主張し、フランスの領土を維持する事に成功した。
会議は翌15年、ナポレオン再起の報に驚いてようやくウィーン議定書の調印にこぎ着けた。
その内容は、大国が主導して伝統的な体制を維持し、ヨーロッパで盛り上がり始めた民主主義や自由主義を求める運動を抑え込もうとする反動的なものであった。
この体制をウィーン体制という。
ウィーン議定書では、フランスとスペインでのブルボン朝復活、ドイツ連邦の成立、ロシア皇帝のポーランド王兼任などが決められた。
また、ロシア皇帝の提唱による神聖同盟と、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアの軍事・政治同盟である四国同盟(後にフランスが加わり五国同盟)が締結され、ウィーン体制を支える事となった。
しかし、フランス革命からナポレオン戦争を通じて芽生えた自由主義、ナショナリズムの台頭を抑える事は、もはや困難であった。
ヨーロッパ各地で、ウィーン体制を揺るがす動きが起こるようになる。
ウィーン体制に反発する自由主義とナショナリズムの運動が沸き起こった。