フランス革命

フランス革命で「国民国家」が誕生

18世紀末のフランスでは、王政の下、特権を持つ権力者層と参政権すら持たない農民・市民とに分かれる階級社会であった。
「国民」の権利を得る為、平民らによる国民議会の結成や、全国の農民による蜂起が勃発する。
これらの流血を伴う革命によって、王政の打倒に成功、古い体制が打ち破られ、「国民国家」が生まれた。

旧制度を打破し、王政から共和制へ

徴税をめぐり、国政が不安定になる

アンシャン・レジーム(旧制度)下のフランスでは、社会は封建的特権を持つ聖職者や貴族と、参政権が無く納税の義務を負う農民や市民に二分されていた。
国王ルイ16世は、宮廷の浪費や対外戦争で悪化した財政を特権階級への課税で改善しようとしたが、これに貴族が反発する。
事態打開の為、1789年に175年間収集されていなかった三部会を開催した。

平民が国民議会を結成し、農民たちも蜂起

しかし、議決方法を巡って紛糾し、第三身分(平民)が独自に国民議会を結成する。
国王は軍隊の力で議会に圧力を掛けた為、これに反発したパリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃する。
さらに、これに続いた農民たちが全国で蜂起した。
国民議会は封建的特権の廃止を宣言、また、基本的人権、国民主権などを謳う人権宣言を採択した。

人権宣言とは

フランス革命初期の1789年8月26日、国民議会で採択された宣言で、正式名称は「人間及び市民の権利宣言」という。
前文と本文17条からなり、全ての人間の自由と平等、永久に侵す事の出来ない権利としての自由・所得・安全・圧政への反抗権、国民主権などを保証する。
アメリカ独立宣言と並び近代人権宣言の模範とされ、多くの影響を与えた。

国王と王妃の処刑

1791年、憲法を制定して解散した国民議会に代わって発足した立法議会では、共和制を目指すジロンド派が優勢となり、92年には革命へ干渉する姿勢を見せていたオーストリアに宣戦布告する。
革命軍は苦戦するが、革命防衛の為、全国から結集した義勇兵と民衆が王宮を襲撃して、王権の停止と男子普通選挙による国民公会の招集を決定する。
国民公会は王政廃止共和制を宣言する。
翌年93年には前国王であるルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑される。

英雄ナポレオンの台頭

急進派による恐怖政治

93年、第1回対仏大同盟(フランス革命を脅威と感じたヨーロッパ諸国の同盟)が結成され、対外危機が高まる。
国民公会で主導権を握った急進的なジャコバン派は、ロベスピエールの指導の下、反対派の人間を次々に断頭台に送り処刑する。

不安定な政局をめぐり、クーデターが多発

しかし、翌年には穏健共和派によるテルミドールの反動というクーデターが勃発する。
ロベスピエールは処刑され、95年には穏健な共和派ブルジョワジーによって、5人の総裁による総裁政府が成立した。
この不安定な政局の中、革命軍の将校として功績を上げていたナポレオンが国民の支持を得、99年のクーデターで政権を掌握する。

国民国家の原則

フランス革命は、自由・平等の理念に加えて、個人を「国民」として国家に結びつける国民国家の原則を打ち出した。


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