東西交易の道 シルクロード

後漢とローマ帝国を結んだシルクロード

王莽(おうもう)によって滅ぼされた漢だが、光武帝によって後漢王朝が再び興る。
後漢の西域進出によって、後漢とローマ帝国がシルクロードによって結ばれ、東西世界の交流が盛んとなる。
この東西交易によって、後には海上航路の確立にもつながる事になる。

漢王朝が再興し、西域支配に乗り出す

西暦25年、新(しん)の王莽を倒した光武帝によって再び漢王朝(後漢)が建てられた。
光武帝は外戚や宦官(かんがん)の力を抑制し、儒教による政治を推進した。
1世紀末、後漢は外征に力を入れ、西域都護(せいいきとご)として、班超(はんちょう)を派遣して匈奴(きょうど)を討伐し、西域支配にあたらせた。

絹を運ぶからシルクロード

中国と西アジア、地中海地方を結ぶ「オアシスの道」は、中央アジアに点在するオアシスの都市を経由し、ローマで珍重された中国の絹を運ぶ重要ルートであった為、シルクロードと呼ばれるようになった。
シルクロードは前漢の武帝の西域進出、後漢の西域支配などを通じて次第に整備され、東から絹や工芸品、西からは宝石やガラス器、貴金属などが運ばれる東西文明の交流における幹線となった。
仏教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教もこのルートを通じて伝播している。

東西両大国が互いに使者を送り合う

西域支配にあたった班超は西域の50余国を服属させ、シルクロードの大部分を制すると共に、部下の甘英(かんえい)を大秦国(ローマ帝国の事)に送った。
甘英本人はローマには至らなったものの、西アジアの事情が中国に伝わる事になった。

東西交易が、海上交通をも活発化させた

一方、当時最盛期を迎えていたローマ帝国からも漢への使者が送られ、166年、ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス(中国名:安敦(あんとん))の使者が海路での版図となっていた日南(ベトナム中部)に達している。
ローマ帝国が東方の物品を求める事により海上交易が活発となったと考えられ、ローマ帝国の金貨がアジア各地で出土している。

南北、二つのシルクロード

草原の道
シルクロードの北側の草原地帯の東西に貫く交通路。
この道を通って、馬具を発明したスキタイなどの遊牧騎馬民族の分化が伝わった。
ウクライナ→カザフ草原(カザフスタン)→モンゴル高原→満州(中国)
オアシスの道
中央アジアのオアシスの都市を辿って東西を結ぶ道で、交易をする隊商が通った。
ローマ→地中海→シリア→メソポタミア(イラク)→ソグディアナ(ウズベキスタン)→タリム盆地(チベット)→長安・洛陽(中国)

東西貿易の拠点 オアシスの都市

中央アジアの高山地帯の麓には、各地に雪解け水をたたえるオアシスがあり、灌漑による農業が行われており、東西の交易の重要な拠点となっていた。
このオアシス地帯には、西方からイラン系のソグド人が移住し、オアシスの道の要所、サマルカンド(ウズベキスタン)を中心に、各地域に都市国家を形成した。
一方、家畜を放牧しつつ各地を移動しながら生活する遊牧民は、騎馬戦用の武器や馬具に優れ、強大な軍事力を持つが、十分な食料を得られなかった。
そこで、オアシスの都市国家と結びつき、後に経済力と軍事力を持つ遊牧民国家が登場する事になった。


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