辛亥革命で中華民国が建国

辛亥革命で中華民国が成立

19世紀後半、清国は太平天国による内乱や、アヘン戦争・日清戦争などの外国勢力との戦争による敗北によって、急速に弱体化していた。
国家の権威が低下し経済も悪化、さらに国内の反発なども相まって、危機が深まった清朝は、辛亥革命を経て滅亡に至った。
清の滅亡後、中華民国が建国されるが、国内は軍閥割拠の混乱が続いた。

中華帝国の終焉と軍閥の割拠

清では、変法自強(へんぽうじきょう)の改革運動が挫折した後、義和団事件で巨額の賠償金を課せられるなど、危機がいよいよ深刻化していた。
国内では清朝に対する不満が高まり、各地で革命結社が生まれていた。
1905年には興中会(こうちゅうかい)など3団体が、孫文を総理とする中国同盟会を結成する。
民族独立、民権確立、民生安定の三民主義を掲げ、清朝の打倒と国民国家の建設を目指して武装蜂起を繰り返した。

辛亥革命と中華民国の成立

1908年、清朝政府は憲法大綱発布(けんぽうたいこうはっぷ)を公約するなどの改革に取り組んでいる。
憲法大綱とは国会開設などを約束した立憲政体
しかし、1911年に財政危機の打開策として民営鉄道の国有化を宣言すると、各地で反対運動が起こり、四川では暴動にまで発展した。
同年10月に革命派の軍隊が武昌(ぶしょう)で蜂起して革命政権を樹立すると、この動きは全国に波及し、14の省が独立を宣言する。
これを辛亥革命(第一革命)という。
翌年には、孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した。

清が滅び、中国は分裂状態へ

清朝は、北洋軍閥の指導者であった袁世凱(えんせいがい)に革命政府との交渉にあたらせ、この危機を乗り切ろうとする。
しかし、袁は革命政府と内約を結んでおり、自らが臨時大総統になる事と引き換えに宣統帝(溥儀(ふぎ))を退位させ、清朝を滅亡させた。
革命派は中国同盟会をもとに国民党を結成して議会を掌握したが、列強からの援助で力を付けた袁世凱に弾圧され、13年の袁政府への挙兵(第二革命)も失敗に終わった。
その後、正式な大総統に就任した袁は、15年には皇帝即位を企てるが失敗(第三革命)する。
翌年、袁が病死した後は、列強の援助を受けた軍閥が各地に割拠し、中国は分裂状態に陥った。

辛亥革命と当時の出来事

中国同盟会結成 1905年
日露戦争での日本の勝利に刺激され、興中会など中国革命3団体が中心となって、東京で中国同盟会が結成された。
四川暴動 1911年
鉄道国有化の反対運動は、当初陳情、請願という形で行われたが、四川省の陳情団が官憲によって射殺された事を機に、9月には数百万の民衆による暴動へと発展した。
武昌蜂起 1911年
10月10日、長江中流の武昌で、新軍(洋式軍隊)内で勢力を拡大していた革命派が蜂起。
辛亥革命の火ぶたが切られた。
中華民国成立 1912年
1912年1月、孫文が南京で中華民国成立を宣言。
2月には宣統帝が退位し、清は滅亡した。

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