18世紀、清に対して貿易赤字を抱えていたイギリスは、アヘンの密輸によって、大幅な貿易黒字に転じる事に成功した。
しかし、清によってアヘンが没収・廃棄された事を機に、イギリスは武力で清国に自由貿易を認めさせるべくアヘン戦争を仕掛けた。
アヘン戦争に大敗した清は、イギリスをはじめとした欧米列強と不平等条約を結び、半植民地とされてしまう。
乾隆帝(けんりゅうてい)の時代に最盛期を迎えた清朝だったが、その後は官僚の腐敗などで弱体化し、18世紀末からは白蓮教徒の乱(びゃくれんきょうとのらん)など、民衆反乱が頻発した。
この頃イギリスは、対清貿易をほぼ独占していたが、紅茶や絹織物などの輸入が増える一方、イギリス産の綿布は清では売れなかった。
結果、大幅な輸入超過に陥っていたイギリスでは、大量の銀が国内から流出していた。
こうした状況を打開する為イギリスは、清国内でのアヘン吸飲の習慣に目を付けた。
当時インドの大部分を支配下に収めていたイギリスは、インドで栽培させたアヘンを清に密輸する三角貿易を考案し、大量のアヘンを清に売り込んだ。
さらにイギリスは、それまで売れなかった綿布を、インドへと輸出し始めたのだ。
この三角貿易によりイギリスは貿易黒字に転じ、清からは銀が流出した。
1773年にアヘンの密輸貿易が開始されているが、それまでアヘンの清への輸入量は医薬品として毎年200箱(1箱約60s)程度だった。
しかし、密輸開始後のアヘンの輸入量は、1800年には2000箱、1830年には2万箱にも達した。
アヘンの大量輸入によって、一転して輸入超過となった清では、銀の流出によって、銀の価値が急騰し、地租を銀で納めていた農民を苦しめた。
その結果、清は財政的にも打撃も受ける結果になったのだ。
アヘンが庶民にまで広まった為、事態を憂慮した清朝政府は、アヘンの密輸を取り締まる為、林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣する。
イギリス商社などが所有していたアヘンを没収して廃棄させ、アヘン密輸を厳禁した。
これに対し、公行(コーホン)といわれる特許商人を通じてしか貿易が許されない事に不満を持ったイギリスは、武力で自由貿易を認めさせる事を決定する。
1840年、広州に艦隊攻撃を仕掛け、アヘン戦争が勃発した。
当時の清国は、中世以前の王朝的な国家体質の改善が出来ておらず、戦う前から勝敗は決していた。
逆にイギリス軍は当時の世界最先端の蒸気船艦隊を保有しており、物資輸送の要衝であった上海の運河を封鎖するなどの戦略によって戦争に勝利した。
1842年の南京条約と、翌年1843年の虎門寨追加条約(こもんさいついかじょうやく)によりイギリスは香港島を獲得した他、清の関税自主権をも奪った。
清はさらにアメリカとの望厦条約(ぼうかじょうやく)やフランスとの黄埔条約(こうほじょうやく)などの不平等条約を締結する事になる。
これらの条約によって、列強による中国の半植民地化が開始された。