ロシア革命と社会主義国家

ロシア革命と社会主義国家

1917年、第一次世界大戦で疲弊したロシアでは、労働者によるストライキによる革命で帝政ロシアが崩壊する。
その後、帰国したレーニンによってソビエト政権が樹立され、史上初の社会主義国が誕生した。
これにより、冷戦期にアメリカと覇権争いを続けたソビエト連邦の誕生へと繋がっていく。

ロシア帝国を崩壊させた二月革命とソビエト

ロシア第一革命

1905年のロシア第一革命では、労働者による皇宮への平和的な請願行進デモに対し、軍隊が発砲、多数の死傷者を出している。
この事件を血の日曜日事件といい、これを切っ掛けに、労働者のソビエト(評議会)が発足される。
皇帝ニコライ2世は国会の開設を約束する。

二月革命

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、もともと経済的基盤が弱かったロシア帝国は、深刻な食糧不足に陥っていた。
1917年3月(ロシアのユリウス暦では2月)、窮状に耐えかねた労働者が首都ペトログラードでゼネスト(大規模なストライキ)を敢行する。
ロシア帝国の兵士たちも、このゼネストを支持していたという。
これを受け、ドゥーマ(国会)では、立憲民主党を中心とした臨時政府が樹立された。
事態を収拾できなくなったニコライ2世は退位する(二月革命)。

臨時政府とソビエトの二重権力状態

ニコライ2世を退位させた二月革命により、ロシア帝国は崩壊してしまう。
帝国の崩壊により、国政を執ったのは臨時政府だったが、同時に各地でソビエト(評議会)が設置されていた。
これにより、ロシア国内は臨時政府とソビエトが対立する二重権力状態にあった。
4月になると、亡命先のスイスから帰国したウラジミール・レーニンが「四月テーゼ」を発表、社会主義革命を進める方針を示した。
全ての権力をソビエトへ」というスローガンを訴え、臨時政府との対決姿勢を明らかにした。

戦局の悪化を機に、左派勢力が台頭

臨時政府は革命後も戦争を継続する事を決定、社会革命党やメンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党右派)を入閣させ、社会革命党のケレンスキーが首相に就任した。
しかし、戦局が好転しない事から、臨時政府の威信は低下の一途をたどる。
各地のソビエトでは当初から戦争に反対していたボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党左派)が勢力を伸ばしていた。

十月革命とソビエト政権樹立

十月革命

1917年11月(ユリウス暦10月)には、ボリシェヴィキ派の労働者や兵士がペトログラードで蜂起して臨時政府を打倒する。
ボリシェヴィキと社会革命党左派からなるソビエト政権を樹立した。

レーニンによる一党独裁体制

レーニンを指導者とする新政府は、即時停戦と無併合・無賠償・民族自決(自分たちの事を自分たちで決める権利)の原則を訴えた「平和に関する布告」を発布。
続いて地主の土地を没収する「土地に関する布告」を出している。
さらに憲法制定議会の選挙を実施したが、農民を支持基盤とした社会革命党が第一党になるとレーニンは議会を解散した。
社会革命党左派も政権から追放し、ボリシェヴィキによる一党独裁体制を確立した。

大戦終結直前のドイツとの単独講和

レーニンが新政権を準備している間、ドイツとの単独講和が踏み切られており、18年3月に多額の賠償支払い義務を負うブレスト・リトフスク条約を締結したが、同年11月に第一次世界大戦は終結した。

レーニンの死後

1924年1月にレーニンが亡くなると、「一国社会主義」を主張するスターリンと、世界革命の必要性を説くトロツキーとの間で対立が表面化した。
同年5月の党大会で書記長留任が決定したスターリンは、その後トロツキーの権威失墜を謀り、独裁体制を確立していった。
存命中のレーニンは、スターリンの後継者としての資質に疑問を抱き、遺書となった書簡の中で、書記長更迭の必要性も述べていた。


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