東西冷戦の始まり

共産主義とアメリカの対立

大戦終結からわずか半年後には、イギリスの首相・チャーチルの「鉄のカーテン」演説が行われ、ヨーロッパにおける冷戦構造が形成されていった。
アメリカを中心とした自由主義陣営と、ソ連を中心とした共産主義陣営によって世界は二分された。

国連発足前から崩れた集団安全保障体制

反ファシズムで団結した連合軍だが、実は大戦中から対立の芽はあった。
ソ連のスターリンは西部戦線(ヨーロッパ)の形成が遅れたことに対して不信感を抱いており、1945年2月の「ヤルタ会談」では、ポーランドに関して、ロンドン亡命政府を正統とするイギリスに対し、ポーランド労働者党を中心とした国民解放委員会を支持して対抗した。
戦後のポーランドをイギリスと遠ざける狙いである。

戦後賠償・政策を巡っても東西が対立

また、ドイツ降伏後の占領政策では、自国の復興のために厳しい賠償の取り立てを主張したソ連に対し、ヨーロッパ経済復興のためにドイツ経済の立て直しを優先させた米・英・仏が対立する。
さらに、中・東欧を安全保障上の緩衝地帯とすべく、各国の共産党(共産主義者)を支援したソ連の動きは、英・英の目に膨張主義と写り、警戒感を募らせていく。

トルーマン・ドクトリン

この他、米・英は共産ゲリラとの内戦が拡大していたギリシャと、ソ連にボスポラス・ダーダネルス海峡の共同管理を突き付けられていたトルコで懸案を抱えていた。
同地域はイギリスの勢力圏だったが、当時はすでに財政的な余裕がなく、アメリカ両国の支援の肩代わりを求めざるを得ない状況だったのだ。
これに対し、ギリシャを皮切りとした「共産圏ドミノ」を恐れたトルーマン米大統領は47年3月、世界が自由主義と全体主義に二分されているとして暗にソ連を批判した。
アメリカには自由主義を守る責務があるとして、ギリシャとトルコへの経済・軍事援助を開始した。

コミンフォルム(共産党情報局)

この「トルーマン・ドクトリン」で対ソ連封じ込め政策を開始したアメリカは、次いで西欧世界が内部から共産化するのを防ぐべく「マーシャル・プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)」を発表。
経済の疲弊によって共産党が躍進していたフランスやイタリアでは、共産党勢力の抑制に成功する。
対するソ連は東欧諸国及び仏・伊の共産党でコミンフォルム(共産党情報局)を結成。
世界が帝国主義と反帝国主義に二分されているとして西側との対決姿勢を鮮明にした。

ドイツの東西分裂

こうして、国連創設による地球規模の集団安全保障体制の構築、という平和構想は崩壊。
ドイツでは、48年に西側占領地域がソ連に通告する事なく通貨改革を進める事で、東ドイツで使われている通貨が、西ドイツでは使えなくなった。
この西側の政策に、ソ連は「ベルリン封鎖」で対抗するなど、東西の対立は尖鋭化し、翌49年にはドイツは東西に分裂した。


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