1815年に確立した正統主義による大国優先のウィーン体制。
これによって抑え込まれた自由主義とナショナリズムは、新たに革命の波を生み出し、ヨーロッパ各地に飛び火する。
そして、フランスで行った2度の革命によって、ウィーン体制はあえなく崩壊する。
フランスではウィーン体制により王政が復活し、シャルル10世の反動政治が自由主義との対立を生んでいた。
1830年の選挙で自由主義者が勢力を伸ばすと、国王は議会を解散したため、パリで民衆が蜂起する。
3日間にわたる市街戦の末、国王は海外へ亡命した。
これが7月革命である。
革命後、自由主義派のルイ・フィリップが国王に選ばれ、7月王政が始まった。
しかし、新国王も銀行や資本家を保護したため、民衆の不満は消えなかった。
7月革命の影響はヨーロッパ各地に及んだ。
まず、ベルギーが独立した他、イタリアやドイツでは立憲政治を求める運動となって表れた。
1848年、フランスで普通選挙を求める運動が政府によって弾圧されると、再びパリの民衆が蜂起する。
国王を退位させて臨時政府を樹立、第二共和政を宣言した。
これを2月革命という。
しかし、臨時政府は保守化し、改正後の憲法下で実施された大統領選挙では、ナポレオンの甥であるルイ・ナポレオン(後の皇帝ナポレオン3世)が当選した。
2月革命もまた、ヨーロッパ各地で革命や自由主義運動を誘発し、結果、ウィーン体制は崩壊した。
フランスでの2度の革命がヨーロッパの自由主義やナショナリズムを高揚させ、ウィーン体制を崩壊させた。