責任(議院)内閣制の誕生

歴史まとめ.net > 世界史 > ヨーロッパ

ピューリタン革命と名誉革命

早くから市民階級が形成されていたイギリスでは、ピューリタン革命と名誉革命の2つの革命を経て、1721年に議会政治(責任(議院)内閣制)が確立した。
イギリスで誕生した議院内閣制は、現在は日本やドイツ、スウェーデンなどの国でも採用されている。

ピューリタン革命と独裁政治化

17世紀のイギリスでは、独立自営農民のヨーマンやジェントリ(郷紳(きょうしん:身分制議会に選出された州の代表者の事))が市民階級を形成し、議会に進出していた。
彼らの多くはプロテスタントピューリタン(清教徒)であったが、エリザベス1世の死後、ステュアート朝を開いたジェームズ1世とその子チャールズ1世は議会を軽視し、ピューリタンを弾圧する。

議会の在り方を巡って、内乱に発展

これに反発した議会は権利の請願(けんりのせいがん:議会の同意無しでは課税等を出来ないようににした請願)を提出するが、王は議会を解散した。
その後、スコットランドで起きた反乱に対する戦費調達の為、王が議会を開くと、議会は王党派議会派に分かれて内乱状態となった。
議会派はさらに、長老派、独立派などに分裂したが、徹底抗戦を主張する独立派のクロムウェルがネーズビーの戦いで王党派軍を破り、国王を処刑した。
ピューリタン革命を成し遂げたのである。

クロムウェルの死後、王政復古

クロムウェルは王党派が多くいたアイルランドなどを征服し、議会を解散させ、護国卿(ごこくきょう)となって独裁政治を行った。
しかし、そのクロムウェルの死後、長老派と王党派と結んで前王の子チャールズ2世を迎え、王政に復古した。

無血革命による議会制民主主義の誕生

名誉革命(無血革命)

チャールズ2世と次のジェームズ2世は親カトリック政策を執った。
これに対し、議会に誕生していたトーリー党(王権擁護派)とウィッグ党(王権制限派)が協力して、ジェームズ2世の娘メアリと、その夫のオランダ統領ウィレムに援助を要請する。
ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると王は亡命し、無血革命(名誉革命)が成立した。
ウィレム夫妻はウィリアム3世、メアリ2世として共同で王位に就くと、議会の権利宣言を承認して権利章典を制定。
これにより立憲王政が確立した。

議院(責任)内閣制の誕生

その後、メアリ2世の妹アン女王が亡くなりステュアート朝が絶えると、ジェームズ1世の地を引くドイツのハノーヴァー選帝侯(せんていこう)がジョージ1世として即位した。
しかし英語を解さないジョージ1世は政治に無関心だった為、議会の多数派が内閣を形成して政治を行うようになる。
こうして1721年、ウィッグ党のウォルポールによって、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立する。
国王は君臨すれども統治せず」という伝統が生まれたのである。
この責任内閣制と君主の在り方は、現在の日本でも議院内閣制・天皇制として採用されている。


↑ページTOPへ