モンゴル帝国(元)

世界帝国 モンゴル帝国

モンゴル帝国は中央アジアのモンゴル高原に興った遊牧民族のフビライ・ハンが築いた帝国。
フビライは強大な軍事力を背景に、ユーラシア大陸の東西世界を結ぶ広大な地域を支配する。
アジアからヨーロッパの一部まで支配下に治めたモンゴル帝国だったが、やがて内紛や失政を繰り返し、国家は分裂・滅亡する。
>> モンゴル帝国(元)の年表

遊牧民の英雄チンギス・ハン

12世紀、モンゴル高原では遊牧民の諸部族が争いを繰り返していた。
モンゴル族のテムジンは13世紀初頭、諸部族を統一してチンギス・ハン(ハンとは王の事)の称号を受けると、千戸制という軍事・行政制度を取り入れ、強大な軍を編成した。
また、契丹人(きったん)の耶律楚材(やりつそざい)を重用して、政治・経済の制度を整えていった。
チンギスに率いられたモンゴル軍は、華北の金へ侵入し、西アジアのホラズム朝、中央アジアの西夏(せいか)を滅ぼした。

2代目オゴタイ・ハン

1227年のチンギス・ハンの死後、第2代ハンとなったオゴタイは、金を滅ぼし、カラコルムを首都として、バトゥに西への遠征を命じた。
バトゥはロシアを征服し、ヨーロッパへ進撃した。
強大なモンゴル軍の前にヨーロッパ軍はひとたまりもなく敗れるが、オゴタイの死の報せを受けたモンゴル軍は引き返し、ヨーロッパは征服を免れる。

4代目モンケ・ハン

第4代モンケ・ハンは、弟のフビライ及びフラグに遠征を命じ、フラグはアッバース朝を滅ぼし、フビライは大理、チベットなどを征服した。
こうして、ユーラシア大陸に史上空前の大帝国が誕生し、東西交流が活発化した。

大ハン位を巡る内乱を経て、5カ国の分立へ

5代目フビライ・ハン

第5代ハンとなったフビライは、首都を大都(現在の北京)に移し、1271年に国号をとすると、中国の南宋を滅ぼし、朝鮮の高麗を属国にした。
さらに、海洋進出も行っており、日本や東南アジアの支配を目指したが、失敗に終わっている(元寇)。
この頃、モンゴル帝国全体の長である大ハン位をフビライが継いだ事に対する反乱が起き、約40年間に渡って内乱が続いた。

元はやがて分立、そして滅亡へ

この結果、モンゴル帝国はフビライののほか、オゴタイ・ハン国チャガタイ・ハン国キプチャク・ハン国イル・ハン国の5国が並び立つ事となった。
ユーラシアにおけるモンゴル帝国の支配は約100年間続くが、中心をなす元では宮廷の内紛や腐敗、失政による経済破綻から被支配者である漢民族の不満が高まった。
これに飢饉や災害が加わり、元は崩壊への道を辿る。

モンゴル帝国(元)の年表

西暦 出来事
1206年 テムジンがモンゴルを統一
チンギス・カンを称し、モンゴル帝国建国
1227年 シルクロードの西夏を滅ぼす
チンギス・カン死去
1229年 チンギス・カンの息子 オゴタイが第2代ハンに即位
1234年 中国北部を占領していた金を滅ぼす
1235年 チンギス・ハンの孫バトゥがロシアまでの遊牧民の世界を征服
1241年 オゴタイが死去し、バトゥは遠征を中止
1246年 グユクが第3代ハンに即位
1248年 グユクが死去
1251年 モンケが第4代ハンに即位
1253年 フビライが大理国を降伏させる
1255年 バトゥが死去
1256年 モンケ、弟のフレグに西アジア遠征を命じる
フレグがイランの行政権を獲得し、イルハン朝(フレグ・ウルス)が成立
1258年 フレグ、バグダッドを征服しアッバース朝を滅ぼす
1259年 高麗を服属させる
モンケが死去
1260年 フビライが第5代ハンに即位
1271年 モンゴル帝国を元と改称
マルコ・ポーロが上都を訪れる
1274年 元寇 文永の役
1277年 アナトリアの戦い
マムルーク朝に敗北
1279年 崖山の戦いで南宋を滅ぼす
1281年 二度目の元寇 弘安の役
1288年 白藤江の戦い
陳興道率いる陳朝ベトナムに敗北
1294年 フビライ死去
フビライの孫テムルが第2代元朝皇帝に即位
1305年 モンゴル帝国(元)が5つに分裂
1368年 明の朱元璋によって、元朝最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原に敗走
以降、北元と称される
1634年 モンゴル高原は清の支配下に置かれ、北元滅亡

↑ページTOPへ