アンデス文明の技術

アンデス文明の技術

アンデス文明は、文字や車輪など、普通の文明で見られる技術を持たなかった。
しかし、黄金を作り出す技術や、石造建築技術など、驚異といえる技術を持っていた。

アンデス文明の冶金技術

アンデス文明は鉄も持っていなかった。
しかし、冶金技術(やきん)を持っていなかったわけではないのだ。
むしろ、現在発見されている黄金の装飾品などの加工技術には、目を見張るものがある。
紀元前16世紀ごろには、ペルー中部の山地で金の薄い板が作られており、紀元前1世紀ごろまでには、金銀銅の合金の製作も行われるようになっていた。

メッキの逆「表面富化」

表面富化という技術も持っていた。
これは金銀銅の合金を焼いて、表面の銀と銅を酸化させる。
硫酸で銀と銅を取り除き、表面に含まれる金を多くする
メッキとは逆の方法だが、紀元6世紀には現在の電気メッキと同じ技術を獲得していたという。
モチェやシカンの人々は、合金にすると融点が低くなることを知っており、それを利用していたのだ。

アンデス文明は鉄を持たなかった

アンデス文明は鉄器を持たなかった。
というより、鉄を「溶かす高温」が作れなかったのだ。
鞴(ふいご)という、燃焼を促進し、高温状態を作るための道具がなかった。
当然、鞴は無くとも、空気の流れを生み出す事で、燃焼を促進できる知識はあった。
高温を作る必要があった時には口で吹く事も出来、山の頂上に炉を作って、風を利用して高温を得る事もあったという。
隕鉄も知られており、酸化鉄は顔料として使われていた。
しかし、鉄器だけは用いられなかったのだ。
金属の用途は儀礼中心で、利器は石器だった。

石組み技術

アンデス文明は、驚異といえる石組み技術を持っていた。
巨大な石造建築を、剃刀の刃一枚の隙間もないといわれる程の精巧さである。
この技術に関しても、近年ではかなり解明が進んでいる。

年代順 石造建築物

アンデス文明の石造建築物を年代順に見てみると、不思議な変遷を遂げている。
コトシュの神殿は石と土を積み上げている。
チャビン・デ・ワンタルの石積は大きな切り石を整然と積んだものだ。
ところが、紀元8〜12世紀のワリでは、土で隙間を埋めながら石を積む工法がとられている。
インカでは、多角形に切られた石が隙間なしに積まれているのだ。

ティアワナコの石造技術

インカの石組みは、ティアワナコの影響を受けている。
第9代の皇帝パチャクティがここを征服した際、その石造建築に驚愕し、この地方の石工をクスコで働かせたという記録がある。
15世紀の皇帝パチャクティは、インカ帝国の祖である。
クスコの街を造ったのも、この人物だ。
もともと小さな部族国家に過ぎなかったインカはパチャクティの始めた征服事業によって大きく飛躍した。
第11代ワイナ・カパックの時代にコロンビア南部からチリ中部までを含む巨大帝国が出現する。
だが、インカ帝国の栄華を今に留めるクスコの街並みを見て疑問なのは、なぜこのような手間のかかる工法をとったのかだ。

自然に従った石造建築法

クスコは地震の多い地域である。
クスコの多角形の石で組まれた台形の建築物は地震に強い事は間違いない。
それにインカでは、車輪を用いた運搬手段は発明されなかった。
車輪だけではなく、コロすらもなかった。
つまり全ての石は、斜面を滑らせて運ばれたという事になる。
そして、石のハンマーで削ったのである。
石の自然の形を残し、つまり、削る部分を出来るだけ少なくする方が、工法としては合理的だったのだろう。


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