帝国議会

帝国議会の始まり

明治憲法により設置された議会

日本の議会(のちの国会)の始まりは明治に遡る。
1890(明治23)年11月25日、第1次山県有朋内閣の下に、明治憲法により設置された帝国議会※の召集日を迎えた。
現代の日本の国会には参議院と衆議院があるが、帝国議会には貴族院(非公選・上院)と衆議院(公選・下院)があり、それぞれ正副議長(議長及び副議長)を決める事となっていた。
※現在の国会は日本国憲法により設置されている

貴族院と衆議院

衆議院の正副議長を任命

衆議院では、午前10時から正副議長候補を選ぶのだが、日本にとって初めての事であったために時間を要し、正副議長が天皇から任命されたのは翌日の事であった。
初代衆議院議長は中島信行(なかじ のぶゆき)※1、副議長は津田眞道(つだまさみち)※2が任命、両者とも1回衆議院議員総選挙で当選した。
※1 中島信行は神奈川県第5区から立候補して当選
※2 津田眞道は東京府第8区から立候補して当選、大成会に属した

貴族院の正副議長

貴族院では、議長に伊藤博文、副議長に東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が決まっていた。

第一回帝国議会

現代の国会の始まりともいえる

1890年に初の総選挙と初の帝国議会

1890年は日本が立憲君主制国家である事が試される、初めての総選挙と初めての帝国議会開設の年となった。
7月1日に第1回衆議院議員総選挙が行われると、衆議院は自由民権派の勢力が過半数を占めた。

貴族院(→参議院)に玉座があった

11月29日、開院式で天皇の勅語が下賜され、第一回帝国議会が開催された。
帝国議会の開院式は玉座が置かれた貴族院で行われ、その名残・通例で、現在の日本の国会の開会式も参議院で開かれている。

総理大臣は山県有朋

開会直後、山県は総理大臣として「施政方針演説」を行った。
現在でも通常国会の開会式の後、総理が自らの政治的信条や施政方針について述べる施政方針演説を行っているが、これはこの第一回帝国議会で始まった。

施政方針・所信表明演説に法規定はない

特別国会等の冒頭に総理が行うのは「所信表明演説」だ。
施政方針演説と所信表明演説のどちらも法律による規定はなく、慣例として行われている。

演説で山県は「国防」の必要性を主張

朝鮮半島でのプレゼンス獲得を匂わす

施政方針演説で山県は、国の独立自衛を確保する為には「主権線」と「利益線」を保護する必要があり、予算の多くは陸海軍の経費に充てるのはやむを得ない、と主張した。
「主権線」とは国の領域で国境の事を指し、「利益線」とは主権線の安全確保のための区域の事で、当時は主に朝鮮半島を指していた。

民党の公約は無視された

民党は山県の「陸海軍経費に予算の多くを割く」という訴えに強く反発した。
しかし、民党側(民衆代表政党のこと)が公約として掲げた地租(土地に課される租税)の軽減は無視されていた。
その為、予算委員会は政府予算案の約10%を削減する査定案を作成し、田畑の地租率の0.5%削減を要求した。

議会の解散を避けたかった山県

議会は紛糾し、政府内には衆議院の解散を言い始める者も出てきた。
山県は東アジア初の議会が初回から解散する事だけは避けようと、板垣退助に接触を謀り、板垣を盟主とする土佐派の切り崩しに成功する。

政府予算案より8%の削減で可決

最終的に、1891年3月、政府予算案より8%の削減で互いに妥協し、衆議院・貴族院ともに予算案が可決された。

山県が辞任し、松方正義が総理に

第一回帝国議会は無事に終える事が出来たが、疲労困憊した山県は、体調不良を理由に総理辞任を決意。
元勲会議では、伊藤が後任に推されたが、難局を嫌って引き受けなかった。
そして、薩摩出身の松方正義が総理に推された。

衆議院解散と選挙干渉

初の衆議院解散

松方内閣は軍拡を訴え、民党が反対

1891年5月6日に松方内閣が発足し、11月26日の議会に富国強兵政策の為、砲台建設や軍艦建造などの4つの新規事業案を出す。
しかし民党は、海軍内の綱紀粛正がなされなければ予算を認められないとし、逆に大幅削減の予算改定案を提出した。

「蛮勇演説」で衆議院解散

12月22日、反対する民党に対し海軍大臣の樺山資紀は薩長藩閥政府の正当性と民党批判を力説、この「蛮勇演説」は議会の混乱を生む。
そして松方総理は25日、初めて衆議院の解散を決断した。

政府による「選挙干渉」

政府が地域知事に民党妨害を指示

次期・選挙は1892年2月15日と決まったが、政府は各府県知事に民党を妨害する選挙干渉を指示した。
地方官吏の暴走もあり、全国で25人の死者、388人の負傷者を出す事態となった。

民党も政府も多数を占めれず

2月15日に第2回衆議院議員総選挙が開かれた。
その投票結果で、民党は議席の過半数を割ったが、政府系議員も多数を占められなかった。

選挙干渉ニ関スル決議案

その状況下で5月6日に臨時国会が開かれるが、改進党が14日に「選挙干渉ニ関スル決議案」を提出して可決される。
松方は停会を要請し、解散も画策したが、伊藤らに阻まれた。

松方辞任、伊藤が再び総理に

再開された議会では政府が提出した軍艦建造・製鉄所設立の追加予算を巡って衆議院と貴族院が対立、結局は軍艦建造は全額削除となった。
7月30日、松方は後任に伊藤を推し、辞表を提出した。

帝国議会の終焉

男女公平な選挙はまだまだ先

1946年4月10日に女性にも参政権

明治時代、こうして帝国議会によって日本の議会政治が始まった。
しかし、男女ともに公平に参政権が与えられた普通選挙が実施されたのは1946年4月10日の事で、第一回帝国議会から半世紀以上の時間を要した。

戦後、帝国議会は国会に移行

1940年(昭和15年)に全政党が解散して大政翼賛会が成立されると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの翼賛議会と化する。
帝国議会は戦後の1947年(昭和22)3月31日閉会の第92回議会まで行われたが、同年5月3日の明治憲法の失効と日本国憲法の施行により、両院制の帝国議会は国会に移行した。
国会を立法府とし、下院には衆議院が維持され、上院には貴族院に代わって参議院が設置される。


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