江戸前寿司とは、江戸時代に生まれた屋台グルメである。
当時の江戸前寿司が、現在とは少々違ったものであった。
寿司のそれ以前の歴史や、江戸前寿司の誕生、そして現在までの道筋を辿ってみよう。
「すし」が世界で初めて誕生したのは、紀元前の中国であった。
東洋最古の辞書とされる『爾雅(じが)』という本に、「鮨」について記述されている。
当時は魚の塩辛を「鮨」と呼んでいた。
そして、後漢時代には、塩と米を使って付け込んだ「鮓」が誕生する。
別々に生まれた二つの「すし」は、三国時代頃から混同されはじめ、同一のものを指すようになった。
そして中国の「すし」は、明の時代辺りで消滅してしまう。
一方、この「すし」が日本に伝わったのは奈良時代だ。
初期の日本の「すし」は魚介類を塩と米で漬け込んで発酵させた、保存食の一種であった。
いわゆる「熟れずし(なれずし)」で、滋賀県の名産「ふなずし」がその典型である。
食べる際には、ドロドロとなったご飯は外し、フナのみを食べる。
当時は、「すし」の米は食べなかった。
魚と米を一緒に食べるようになったのは、鎌倉時代から室町時代に掛けての事。
米が溶ける前に一緒に食べるようになり、「保存食」から「料理」に進化した。
この「なまなれずし」を経て、魚の切り身などをご飯に乗せて食べる「箱寿司」が誕生する。
また、酢という調味料が登場したのもこの時代であった。
乳酸発酵の代わりに魚やご飯に酢を掛けて味わうようになった。
こうして室町時代以降、「すし」は長い期間漬け込むのではなく、ご飯を酢で味付けして食べる「早ずし」へと変化する。
そして江戸時代に入り、江戸前寿司の「握り」へと進化を遂げる。
「握り」が登場したのは、西暦1804〜1829年の文化・文政年間の頃だ。
第11代徳川家斉の時代で、日本の大衆文化の原型が出来上がった時代でもある。
「握り」を大きく世に広めたのは、両国の「興兵衛ずし」創始者の華屋興兵衛、深川の「松が鮓」を開いた堺屋松五郎らとされており、彼らは関西風の押し寿司とともに、握り寿司を提供し始めた。
すると、たちまち大盛況となり、江戸の寿司店がこぞって握り寿司を出すようになる。
「寿司」という表記は、縁起を担ぐのが好きな江戸っ子たちが生んだ言葉である。
「寿を司る」、または賀寿の祝う言葉「寿詞」に由来するとされている。
こうして江戸前寿司は、江戸時代のグルメ界を席巻した。
誕生してから50年程が経つと、蕎麦店の軒数をはるかに上回る程の寿司店が出来た。
江戸時代の寿司店は、お店の座敷で食べる高級寿司店と、顧客の注文を受けて出前をする「内店」、そして屋台専門の三種類があった。
内店のいくつかは屋台も出していたようだ。
この頃の寿司は今よりもずっと大きく、オニギリ程の大きさであった。
まさに江戸時代の手軽なファーストフードであった。
江戸時代の寿司ネタは、保存が利くように、似たり酢締めにしたり、醤油でヅケにしたりといった「仕事」が施されていた。
この伝統は、現在でも受け継がれている。
文明開化を経て明治時代に入ると、氷の製造が日本でも行われるようになる。
氷によって、握りにも生の魚が使われるようになっていった。
多くの寿司職人は屋台で金を稼ぎ、それを元手に店を構える事を目標にしていた。
屋台は若い寿司職人たちの「登竜門」だったのだ。
こうして江戸で隆盛を誇っていた寿司だが、大阪など他の地方での反応はいまいちであった。
当時はまだ、東京特有の郷土料理だったのだ。
大正時代に入ると、より洋風の文化が日本へ流れ込む。
寿司業界でも、お店の土間にテーブルと椅子を置き、更に一人前を盛った「食堂式」のお店が現れた。
そんなころ、関東大震災が東京を襲う。
家やお店を焼き出された寿司職人たちが日本全国に散り、江戸前寿司店を開いた。
これにより、江戸前の握りが全国に普及していった。
昭和時代になり、第二次世界大戦が勃発。
戦時中から続く食料統制法によって、寿司店は事実上の休業を余儀なくされた。
しかし有志の寿司職人がGHQと粘り強く交渉を重ねた結果、客が持参した米一合を使い、10貫の寿司を作る事が出来るようになる。
この時の寿司の大きさが、寿司一貫の基準となった。
これに勢いを得た寿司職人たちは、続々とお店を閉店した。
屋台を屋内に取り込んだ形で、店内に暖簾を掲げたカウンターを設置し、その中で寿司を握って客に提供するようになった。
こうして、店内に暖簾付きのカウンター席が誕生した。
現在の寿司店の誕生には、哀しい歴史があったのだ。