日本の陸運(交通)

日本の陸運の歴史

原始以来、人が自ら手と足を使い、馬や牛を使ってモノを輸送して来た陸運。
近世までの陸運は、人や情報の往来は多かったが、物資輸送は水運の補助的役割だった。
その後、機関車、自動車などが発明されると、次第に交通と輸送の主役に躍り出た。
水運とともに日本の経済を陰で支えた陸運2000年の歴史を、街道の風景、道を行き来した交通機関などとともに振り返る。

古代(古墳〜平安時代)の陸運

けもの道から五畿七道へ

古代以前はモノや人の移動は少なく、初期の道は「けもの道」であった。
けもの道とは、人が踏み固める事で自然発生的に出来た道の事である。
古墳時代に入ると玉類や鏡などが運ばれていた。
奈良時代に中央集権国家が成立し、山陰道・東海道などの7本の幹線道路を含む五畿七道が整備され、駅伝制が敷かれた。
また、庸調(ようちょう)などの租税は陸送が義務付けられていた。

五畿七道

律令制度により制定された行政区分。
大和、山城(山背)、摂津、河内、和泉の五カ国を畿内とし、他の地域を東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道の七道に分け、幹線道路を整備した。
国司の赴任や使者の往来に用いられた。

手送り式輸送

巨大集落跡・纏向遺跡の建設に、石を手から手へと渡して運んだと『日本書紀』に記してある。
これが陸送の始まりと言える。

陸運の中心を担った馬は、古墳時代に大陸から日本列島に移入されたが、当時は威信財としての性格が強かった。

馬形埴輪(東京国立博物館)

馬形埴輪(東京国立博物館)

駅鈴

701年に制定された大宝律令により、駅制・伝馬制が制定された。
駅鈴(えきれい)は中央の使者が鳴らしながら歩いた。

駅鈴

駅鈴
兵庫県和田山郷土歴史館蔵

荷札木簡

木製の荷札が用いられ神が普及するまで使われていた。

駅鈴荷札木簡

駅鈴荷札木簡

竹内街道

「難波より京に至る大道を置く」として制定された日本最古の官道。
竹内街道を通り飛鳥へ大陸の文物をもたらした。

竹内街道

竹内街道

中世の陸運(鎌倉〜室町時代)

東海道が京と鎌倉を結ぶ

鎌倉時代に入ると京と鎌倉を結ぶ東海道が発展、駅制が整備され、宿も発達した。
街道を行き来する人が多くなり、庶民の旅人の世話をする宿も現れ、なかには遊女がいる宿もあった。
物資の流通だけでなく、武士の移動も増え、勧進や修行の為に旅する僧や山伏などが多く陸上交通を利用していたようだ。
陸上輸送には馬や牛が使われるが、多くは人力で運ばれ、連雀などが使われた。

鎌倉街道

鎌倉時代に関東の諸国と幕府があった鎌倉を結んだ道路網。
1192年、源頼朝が支配力強化の為に次々と道路網が建設し、街道は無数にあった。
中でも幹線道は全国の国府を通り、街道沿いに守護所も置かれた。

鎌倉街道(埼玉県嵐山町)

鎌倉街道(埼玉県嵐山町)

民間輸送業者が活躍

馬借や車借などの輸送専門業者もこの時代に発展した。
年貢の輸送から商品の輸送が主体となった。
一方、寺社や国司などによる関銭の徴収を目的とした関所の濫設が陸上交通の発展を妨げていた。

関所(一遍上人絵伝)

関所(一遍上人絵伝)

布施屋

租税の輸送途中で死亡する人が増加した為、国府や寺院が運営する布施屋(ふせや)が現れた。

布施屋(一遍上人絵伝)

布施屋(一遍上人絵伝)

近世(安土桃山〜江戸時代)

戦乱の終わりと交通網の整備

戦国期は戦乱や山賊などが陸運の発展の大きな障害となった。
しかし、各大名の領国支配が進むと、領国内の治安が改善される。
交通網は領国内の閉鎖的なものではあるが、江戸時代へと継承される伝馬制度が発展した。
戦乱が治まり織田信長豊臣秀吉らが天下を統一すると、関所が廃止され、道路や橋が整備される。
江戸時代に繋がる交通政策が取られた。

五街道と関所の果たした役割

天下統一を果たした徳川家康は五街道を整備した。
五街道は江戸・日本橋を起点として整備された五つの街道で、東海道日光道中(日光街道)、奥州道中(奥州街道)、中山道甲州道中(甲州街道)の五つ。
その一方、街道の要所には関所を設けて物流や人の移動を監視し、東海道中の大きな河川などに橋を架ける事を禁じる場合もあった。
各街道には約4キロごとに「一里塚」という小さな塚が築かれ制度化した。

関所(箱根町)

関所(箱根町)
江戸幕府は軍事的、政治的に関所が必要と考え、交通の要所に関所を設置

江戸時代に普及した運搬方法

幕府は大きな河川を除き、中規模の河川への架け橋整備を進め、大坂や江戸市中の橋は、船を通す為にアーチ型の太鼓橋が多かった。
江戸では駕籠など人を乗せるモノも現れ、広く利用された。
戦国時代の通信手段として利用された飛脚も、街道が整備された事で、町人から公儀まで広く利用される。
人足や馬を提供し荷物を次の宿屋に運ぶ役割を担う問屋場も現れ、大抵が街道の宿場町にあった。
車で荷物を運ぶ方法もようやく定着し、荷車の大八車が出現、江戸をはじめとする城下町で使われた。
内陸の信濃(長野県)や甲斐(山梨県)では馬による陸上輸送が中心であった為、宿ごとに馬を替える事をしない、通し馬で輸送する中馬という方法が発展する。

宿場町(妻籠宿)

宿場町(妻籠宿)
大名の参勤交代に伴い街道が整備され、庶民も旅をする事が出来るようになり、宿場町も発展した

近代(明治〜昭和)

人馬から鉄道・自動車へ

明治時代に入ると西洋の文明が流入、陸運の環境が劇的に変化した。
その先駆けとなったのが新橋〜横浜間の鉄道開通である。
その後、東京と大坂を結ぶ東海道線が開通し、鉄道は日本の経済を支える根幹へと成長し始める。
そして明治も後期になると国産自動車の生産も始まり、江戸時代まで続いた人、馬、牛による輸送から、鉄道や自動車などの機械による輸送へと大きな転換期を迎えた。

この時代だけの乗物

江戸時代まで人馬の設備と近代化した設備が合わさった、この時代だけの珍妙?な乗物もあった。
1869年に東京〜横浜間で乗合馬車が営業を開始し、全国に広まったが、馬車鉄道というモノもあった。
馬車鉄道は、鉄道軌道を走る客車を馬に引かせるモノで、1882年に登場した。
蒸気鉄道や電車に代わるまで、都市交通の中心であった。

馬車鉄道

馬車鉄道

鉄道

1872年に新橋〜横浜間に日本初の鉄道が開業する。
1889年には親橋〜神戸間の東海道線が全通し、鉄道による貨物や乗客輸送が日本の陸運の中心となっていく。
1895年に七条停車場〜伏見油掛町間に日本初の旅客用電車(路面電車)の京都市電が開業。
鉄道網が発達し、乗客と貨物の区別を問わずターミナル駅が人とモノが交わる拠点となり、また街のシンボルともなった。

ターミナル駅(東京駅)

ターミナル駅(東京駅)

戦前のモータリゼーション

鉄道網の発展を追うようにして、バスやトラックなどの自動車による輸送が拡大。
町には円タクが登場し、大正期は自動車の時代となった。
1923年に発生し関東大震災は首都東京に大きなダメージを与えたが、壊滅した地域の道路拡張などが進んだ。

自動車の普及

1918年、国産初の普及型自動車「三菱A型」が発売される。
自動車用の交通インフラも整備され、モータリゼーションの波が押し寄せた。
関東大震災後には一万台を超えた。

地下鉄(アジア工芸蔵)

地下鉄(アジア工芸蔵)
1927年、東京の浅草〜上野間に日本初の地下鉄が開業
大阪では1933年に梅田〜心斎橋間で開業した

新幹線や高速道路の発達

昭和期は長期の戦争による物資不足から陸運の発達は停滞した。
しかし、日本は敗戦から急速に回復し、東名高速道路を始めとした高速道路網の建設が始まった。
東京オリンピックを機に東海道新幹線や首都高速が開通するなど、日本の陸運の根幹を成す交通網が整備された。

高速道路・首都高速

1962年、京橋〜芝浦間に均一料金の自動車専用道路が開通。
1968年に東京〜厚木、岡崎〜小牧などで東名高速が開通する。
以後、高速道路網が拡大していく。

新幹線

1964年、東京オリンピックの開催にあわせて東京〜新大阪間を4時間で結ぶ東海道新幹線が開業した。
その後、南は鹿児島、北は青森まで路線が広がった。

現代(平成〜)

環境問題への対応

省エネと環境問題への関心の高さから、自動車はガソリンと電気で動くハイブリット車や電気自動車が登場する。
また、郵便網や流通網の近代化に加えてインターネット通販が拡大し、宅配などの小口の物流が増大、それを支えるトラック輸送が物流の根幹となった。

トラック輸送

現代、きめ細かいサービスが提供できるトラックが陸上輸送の中心となっている。
全国津々浦々まで行き届く宅配事業は陸運の重要な地位を占めている。
環境保護と経済性を求めたハイブリッドカーが誕生し、バスやトラックにも採用されている。

渋滞

自動車の普及と増加で、大都市周辺の道路では渋滞が多発。
渋滞による損失は大きいが、根本的な解決は難しい。

高速移動時代(リニア)

1964年に誕生した新幹線がスピードアップし、東京〜新大阪間を2時間半に短縮。
2027年には東京〜名古屋間を最短40分で結ぶリニア中央新幹線の開業も予定されている。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 33号 田沼意次と松平定信』朝日新聞出版 監修:胡桃沢勘司

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