源義朝

源義朝

源義朝

源頼朝と源義経の父

源義朝は、平安時代末期(1123〜1160)の河内源氏の武将。源為義の長男であり、源頼朝や源義経の父親である。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。
源義家(後の鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏の祖先)の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。義友は朝廷の命によって東国へ下向したが、坂東にて豪族を組織して自身の勢力を広げる事に成功した後、再び都へ戻って下野守(しもつけのかみ)に任じられる。

武功を挙げるが、戦功に見合う恩賞は得られず

1156年7月、朝廷の後白河天皇方と崇徳上皇方の間に起こった武力衝突である「保元の乱」にて義朝は平清盛
と共に、自身は東国武士団を率いて戦功を挙げ左馬頭に任じられるが、義朝はこの恩賞に満足しなかったと云われる。
そして、3年後の「平治の乱」にて藤原信頼方に与して参戦するが、平清盛に敗北しする。義朝は東国で勢力挽回を図るべく、都を出て東海道を下るが、道中の尾張国で家人に、入浴中に襲撃を受けて殺害された。息子である頼朝は伊豆にて流人となる。



↑ページTOPへ