平安京への遷都

平安京への遷都

何故、平安京への遷都が必要だった?

どうして、平安京への遷都が行われたのか。
それは怨みを抱いたまま亡くなった皇太子の祟りに起因していた。
祟りによる不吉な出来事に悩まされた天皇は、長岡京から平安京への遷都を決断する。

復元大極殿

平安神宮に復元された大極殿

長岡京への遷都

藤原種継暗殺事件

光仁天皇(こうにん)の後を継いだ桓武天皇を支えたのは、藤原百川(ももかわ)らの藤原式家(しきけ)だった。
桓武天皇が山城国長岡への遷都の構想した際、新都建設プロジェクトの責任者に任命されたのも式家の藤原種継(たねつぐ:百川の甥)だった。
延暦3年(784年)6月、長岡京造営工事に着手、その年の11月には早くも遷都が行われた。
まだ主要な建物も出来上がっていない中での、慌ただしい移転であった。

暗殺首謀者に皇太子

延暦4年(785年)、長岡京の未来に暗雲を投げかけるような事件が起こった。
9月22日、長岡京の造営現場にいた種継に矢が射かけられ、重傷を負い、翌日に死亡してしまった。
ただちに犯人探しが行われ、五百枝王(いおえのおおきみ)、紀白麻呂(きのしろまろ)、大伴継人(おおとものつぐひと)、大伴永主(ながぬし)、林稲麻呂(はやし のいなまろ)ら次々に事件の首謀者が逮捕された。
その中に皇太子の早良親王(さわらしんのう)もおり、新都の住人を驚かせた。

皇太子は潔白を主張するも亡くなる

早良親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された。
代わりに桓武天皇と種継の娘である藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)皇后の間に生まれた安殿親王(あて:後の平城天皇)が皇太子に指名された。
早良親王はあくまで潔白を主張し、抗議の断食に入った。
処分は流罪となった。
淡路島へ移送される途中、河内の高瀬橋付近で怨みを抱いたまま亡くなった
遺体は淡路島に埋葬された。

呪われし都 長岡京

祟りを恐れる桓武天皇

その後、早良親王の霊が長岡京を襲い始める
桓武天皇の母・高野新笠(たかのにいがさ)皇太后、乙牟漏皇后、夫人旅子(たびこ)らが相次いで病死、安殿皇太子も体調がすぐれなかった。
陰陽寮(おんようりょう)で占ったところ、早良新王の祟りとの事だった。
怯えた桓武天皇は諸陵神(しりょうのかみ)を淡路国へ遣わし、早良親王の霊に陳謝の意を表した。
それでも、恐怖は去らなかった。
呪われた都・長岡京からの遷都を考えるようになったのだ。
祟りから逃れるには新しい清浄な土地に移るしかないと考えた。

新都建設計画へ着手

桓武天皇は延暦11年(792年)1月と5月、狩猟にことよせて、新都候補の山背国葛野郡宇太村を訪れた。
延暦12年(793年)、大納言・藤原小黒麻呂(おぐろまろ)、左大弁・紀古佐見(きのこさみ)を派遣し、新都候補を視察させる。
ただちに長岡京の取り壊しが始まり、新都建設計画を開始した。

平安京造成開始

大急ぎの新都造成工事

造営使の長官には、初めは小黒麻呂が就いたが、やがて桓武天皇の信頼が厚い和気清麻呂(わけのきよまろ)に代わった。
造宮介(ぞうぐうのすけ)は菅野真道(すがののまみち)が務めた。
新都造成工事は大急ぎで進められた。
桓武天皇は進行状況の確認も兼ねて何度も現場を訪れ、工事関係者を励ました。
延暦13年(794年)6月頃には、新都の全容がおおよそ明らかになり、9月末、全国の名だたる神社に幣(ぬさ:神前に供える布)を捧げて、遷都の成功を祈願した。

山城国の平安京

10月22日、桓武天皇は皇太子や公卿を従え、葛野郡の新都に入城する。
新都が置かれた山背国を山城国と改名し、新都を「平安京」と名付けた。
12世紀、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれるまでの約400年間を、この都にちなんで「平安時代」と呼ぶ。

平安京の規模と構造

平安京は南北38町(約5.31q)、東西32町(約4.57q)ある。
中央の朱雀大路(すざくおおじ)によって左京と右京に分かれ、朱雀大路に沿って東寺・西寺、東西の鴻臚館(こうろかん)など主要な建物が並ぶ。
朱雀大路の南辺には巨大な羅城門がそびえ、朱雀大路の突き当りには天皇が政務を執る大内裏(だいだいり)が配置された。
大内裏は内裏のほか、朝堂院、豊楽院などの建物から成っている。

河を動かし洪水に備えた

平安京の造成には莫大な費用と人力が投入された。
土地をならし、建物を建設しただけではない。
元々は中央部を北から南へ流れていた鴨河を京の東辺に移す大土木工事も行われた。
平安京の中央部を洪水から守る為の構造だった。

水上交通も便利に

鴨河と桂川は淀川を経て瀬戸内海へと続く。
平安京は陸上交通だけでなく、水上交通の点でも抜群の利便性を誇った。

遷都のもう一つの理由

仏教勢力は平城京に留まった

平安京遷都にはもう一つ目的が在った。
有力寺院など既存勢力の政治的な影響力を低下させる事にあった。
桓武天皇は仏教勢力が政治に口を出して来る事を怖れ、平城京の有力寺院が平安京に移るのを許さなかった。
むしろ、仏教や僧侶に対する管理・監督は厳しくなった。

律令体制の立て直し

桓武天皇が目指したのは、律令体制の立て直しだった。
桓武天皇を継いだ平城天皇、嵯峨天皇らも律令制度の改革に取り組んだ。
嵯峨天皇は、平城上皇が復位と平城京への遷都を狙って起こした「藤原薬子の変(平城上皇の変)」を見事に乗り切って自信を付けた。

天皇親政を実現した嵯峨天皇

これ以降、嵯峨天皇から淳和天皇(じゅんな)を経て、仁明天皇(にんみょう)の「承和の変」に至るまでの33年間は、天皇親政化の比較的安定した時期と言える。
天皇、上皇として、この時代をリードした嵯峨天皇の手腕が際立ち、内部抗争も表面化しなかった。


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