藤原清衡

平泉文化を繁栄を築いた 藤原清衡

藤原清衡

幼くして父、経清を失ってしまう

平泉文化の繁栄を築いた奥州藤原氏の祖 藤原清衡(1056〜1128年)。清衡は母親の再婚による複雑な家庭環境や度重なる戦いなどの厳しい環境の中で育った苦労人であった。
清衡の父は藤原経清(ふじわらのつねきよ)、母親は安倍頼時(あべのよりとき)の娘。そして平将門の乱で将門と戦った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫でもあるのだ。
名門の家庭に生まれた清衡であったが、1062年の前九年合戦で父親の経清を失ってしまう(父を討ったのは源頼義(みなもとのよりよしである)。さらに、その後、母が出羽国(でわのくに)の清原武貞(きよはらたけさだ)と再婚してしまった為、先祖代々の藤原姓を捨てて、清原清衡と名乗る事となってしまう。しかも、清原氏の中には母の家系である安倍氏を忌み嫌い、その血を引く清衡を良く思わぬ者もいたという。

母の再婚で清原清衡と名乗る

清衡は1083年から始まった後三年合戦では、異父弟の清原家衡(きよはらのいえひら)と共に義兄である真衡(さねひら)と戦う事となった。真衡は時を同じくして急死してしまったため、その後は源義家と共に家衡を攻める事になってしまう。敵味方が入り乱れる泥沼の戦いとなったのだ。
この合戦により清衡は妻と子を失ってしまうが辛うじて勝利を収める事が出来たため安倍氏と清原氏の支配地域を受け継ぐくことで、欧州の覇者となったのだ。このころから、清衡は再び藤原清衡と名乗りだしたのである。
この後も清衡は奥羽における支配体制を強化するため、当時の関白である藤原師実(もろざね)に陸奥の馬を献じるなど朝廷・摂関家との結びつきを深めていくのであった。

争いのない地、極楽浄土を目指した平泉

後三年合戦を戦い抜き奥州の覇者となった清衡。居館を安倍氏となじみ深い衣川の近くにある平泉へと移したのであった。絶え間ない泥沼の戦いを生き抜いてきた清衡は、この地に争いのない極楽浄土のような安静な土地を求めたのであろう。
中尊寺の造営には特に清衡は力を入れている。全面が金色の堂からなる大伽藍や多くの堂塔や仏像が立ち並び、経文なども優秀な技術者によって揃えられたと云われる。

平泉の繁栄は源頼朝に滅ぼされる

奥州国・陸奥国の名産である馬と金による膨大な経済力に支えられて、これほどの大事業を可能にした平泉は清衡の死後、子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)と、孫である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)へと受け継がれて、奥州藤原氏3代の栄華がなったのである。
しかし、4代の泰衡(やすひら)の時代、源氏の棟梁である源頼朝との勢力争いに敗れて、奥州藤原氏は滅んでしまう。



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