民主党政権

民主党政権の誕生と失敗

2009年衆院選で民主党が勝利

自民党・麻生内閣から総選挙で政権を奪った

2009年8月30日の衆院選(第45回衆議院議員総選挙)で自民党は300あった議席を119にまで減らし惨敗、逆に民主党は115から308議席まで伸ばした。
そして、9月16日に民主党代表の鳩山由紀夫が首班指名され、自民党(麻生内閣)から民主党への政権交代が実現した。

わずか3年間の政権交代

野党が総選挙で単独過半数を制して政権を得たのは、近代以降の日本では初めての事であった。
しかし、その歴史的な政権交代を成し遂げた民主党も、短命政権が3代続いただけで、直ぐに自民党から再び政権を奪われる事になる。

政権交代直前に金融危機が起こっていた

麻生内閣は2008年9月24日に発足したが、その直前の9月15日にアメリカの証券会社リーマン・ブラザーズが経営破綻した事で世界的な金融危機が発生しており、麻生内閣もその余波に襲われる事となった。(リーマン・ショック)
更に麻生首相の失言や主要閣僚の辞任などで求心力が低下、そして政権交代へと繋がっていった。

民主党マニフェスト

民主党は選挙公約をマニフェストとして発表、政権構想の5原則は以下のとおり。

  1. 官僚丸投げの政治から、政権政党が責任を持つ政治家主導の政治
  2. 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ
  3. 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ
  4. タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆の社会へ
  5. 中央集権から、地域主権へ

具体的な政策は、子供手当の支給、公立高校授業料無償化、年金制度の一元化と最低保障年金制度の実現、ガソリン税の廃止や高速道路の無料化、農林漁業の立て直し(戸別所得補償制度)、雇用と環境を柱に人を大事にする経済の実現、在日米軍基地の在り方の見直し、等であった。

鳩山由紀夫政権が発足

発足時の支持率は70%も

総選挙前に発表された民主党の選挙公約は「コンクリートから人へ」を標榜しており、国民はそれまでの自民党政権とは違う価値観を持つ民主党に期待を寄せていた。
発足時の内閣支持率は各新聞調べで70%を超える程であった。

既存体制の刷新を目指した鳩山政権

鳩山総理は「官僚依存政治からの脱却による政治主導」を唄い、内閣に国家戦略室と行政刷新会議を新設、事業仕分けを行い、行政の無駄の排除を進めた。
しかし、2010年(平成22)の予算編成で、子供手当などの成果もあったが、財源不足で実現できなかった公約も多くあった

沖縄の米軍基地問題

普天間飛行場の県外移設を目指すが…

鳩山総理は沖縄県の普天間飛行場移設問題において「できれば国外、最低でも県外」を唄っていた。
しかし、2009年11月の日米首脳会談(鳩山・オバマ)でこの議題は先送りとなってしまう。
結局、交渉相手であるアメリカを無視して選挙公約を掲げても実現できる筈はなかったのだ。

結局は県内移設を閣議決定

米から県外移設を拒絶された事で鳩山総理は移設先に窮する。
翌2010年5月23日、鳩山総理は沖縄を訪問し仲井間知事(当時)と会談、普天間飛行場の県外(国外)移設が叶わなかった事を謝罪した。
続いて同5月28日、沖縄県名護市辺野古崎へ移転するという日米共同声明を確認し、これを閣議決定した。

あっさり辞任した鳩山総理

普天間飛行場の辺野古移設に反対した社民党党首の福島瑞穂消費者担当大臣を罷免、社民党は連立政権から離脱する事となった。
また、鳩山総理と小沢一郎民主党幹事長の双方に政治資金問題が発覚、行き詰った鳩山総理は6月2日に辞任を表明した。
当初70%もあった支持率はこのときには20%前後にまで落ちていた。

菅直人政権

国民新党との連立政権

鳩山由紀夫に続いて総理に就任したのは菅直人であった。
菅は、2010年6月8日の民主党代表選で小沢一郎が推す樽床伸二に勝利し(菅:291票、樽床:129票)、国民新党との連立政権(民国連立政権)を発足した。

反・小沢一郎的な人事で、支持率が回復

菅内閣では、鳩山内閣の閣僚17人中11人が再任されたが、野田佳彦・蓮舫・仙谷由人・枝野幸男など、反・小沢一郎的な人事であった。
鳩山内閣で小沢が廃止した政策調査会も復活させている。
この「脱・小沢」色が明確な体制に内閣支持率は急激に回復、60%にまで上昇した。

「消費税10%」発言で参院選に大敗、国会はねじれ状態に

菅総理は就任時に「最小不幸社会を目指す」と表明した。
しかし、菅総理は就任直後に「消費税10%」と増税の可能性に言及してしまい、民主党内と国民は混乱、支持率も急落した。
その影響から、7月の参院選(第22回参議院議員通常選挙)で大敗して、国会はねじれ状態となった。

脱・小沢で支持率回復

参院選に大敗したが菅総理は続投を主張した。
9月、党代表選で小沢一郎・元代表に圧勝した菅総理は「脱・小沢」人事を貫いて内閣支持率を回復させる。
当時、国民が如何に小沢路線を嫌がっていたかが良く分かる出来事だ。

中国漁船衝突事件で支持率急落

中国漁船が尖閣付近で不法操業

上記の党代表選の最中「尖閣諸島中国漁船衝突事件」が発生していた。
2010年9月7日午前に沖縄県・尖閣諸島付近で不法操業中であった中国漁船が、これを取り締まろうとした海上保安庁の巡視船「みずき」と「よなくに」衝突した。

中国が日本へ報復措置

海上保安庁は漁船の船長を公務執行妨害で逮捕した。
これに対し中国政府は猛反発し「尖閣諸島は中国領である」と主張し、レアアース(希土類)の日本向け輸出を停止するなどの報復措置を講じた。

中国に譲歩した事で支持率急落

この事件において、菅政権は、政治判断から船長をあっさり釈放し中国に送還した。
また中国への配慮から事件に関する証拠映像も公開しなかった。(後にインターネット上に流出)
これらの不手際から国民の不信を買い、支持率も急落する結果となった。

東日本大震災で支持率急落

電力福島第一原子力発電所

2011年(平成23)3月11日に東日本大震災が起こるが、ここでも菅政権の不手際が目立つ事となる。
被災した東京電力福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こすが、情報が錯綜するなかで閣僚たちは狼狽し、重要情報は秘蔵されていた。
この事故処理に対する不満などから、菅総理と民主党は国民の信頼を失ってしまった。

党内部からも菅おろし、退陣を表明

野党が提出し小沢グループが同調した内閣不信任は、辞意をチラつかせる事で6月に否決に持ち込んだ。
その後、内閣支持率は10%台に落ちてからも総理は政権に強い執着を示したが、ようやく8月26日に辞意を表明した。

野田佳彦政権

続いて総理に就任したのは野田佳彦であった。
2011年8月の民主党代表選挙には海江田万里・前原誠司・鹿野道彦・馬淵澄夫、そして野田の五人が立候補、野田が勝利した。
9月2日に就任した野田総理は、挙党体制に配慮した党役員・組閣人事を行った。
復興財源確保法、復興庁設置法など、東日本大震災関係の案件を成立させるが、他の重要法案は通す事が出来なかった。

TPP交渉への参加を決断

同2011年11月、野田総理は「TPP(環太平洋経済連携協定)」交渉への参加を決断。
しかし、農産物自由化の影響を受ける農業関係者・団体からは反対の声も上がり、また、党内調整の失敗なども目立った。

消費増税を決め、政権は再び自民党に

消費税10%増税を決定

2012年(平成24)、野田政権は税率を段階的に挙げる消費税関連法案を国会に提出。
6月に自民党・公明党と合意すると、反対派の小沢グループは民主党を離れ「国民の生活が第一」を結党した。
そして8月10日、消費税を2014年4月に8%2015年10月には10%に引き上げる消費増税法案が可決された。

選挙に大敗、政権を奪われる

2012年9月に尖閣諸島を国有化、先の中国漁船の衝突事故を意識した国有化であったが、これを受けて中国との関係は極めて悪化。
続く12月16日の衆議院選挙で、民主党は308あった議席を57まで激減させ、再び自民党に政権を奪われる事となった。

民主党政権の歴代総理の経歴

民主党で総理大臣を務めた三人、鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦の経歴を簡単にまとめる。

鳩山由紀夫の経歴

鳩山由紀夫は政界の名門・鳩山家(祖父・一郎は元総理、父・威一郎は元大蔵大臣)の出身であった。
当初は政治に関心が薄かったとされ、エンジニアを目指して東大工学部を卒業後、米国スタンフォード大学で博士号を取得、東京工業大学を経て専修大学の助教授を務めた。
弟の邦夫の影響からか、研究職を捨てて政界に転じた。
首相辞任後は民主党からは距離を置くものの、政治家としては活動を続ける。

菅直人の経歴

菅直人は政治家の生まれでなかったが、学生運動・市民運動から政界入り、社会民主連合(社民連)の衆議院議員となり、自社さ連立政権下の橋本内閣で厚生大臣に就任、薬害エイズ問題の対応で世論の支持を集めた。
民主党では結党以来の実力者の一人となり、鳩山の退陣を受けて総理の座に就いた。
菅は短期で部下を怒鳴りつける事があったとされ、新聞社などから「イラ菅」などと表現されたが、その性格が東日本大震災の事故対応に混乱と遅れをもたらしたとも。

野田佳彦の経歴

野田佳彦は松下幸之助が設立した松下政経塾の一期生で、塾出身者として初の総理となった。
野田は政治の家系の生まれではなく、父は農家の生まれの自衛官であったが、幼い頃から政治家の仕事に関心があったいう。
庶民の出身であるため支持基盤も家系による看板も持っていなかったが、日本新党・新進党・民主党と渡り歩いて政治家としてキャリアを積んでいった。
民主党党首選挙では海江田万里との決選投票で215票を獲得し勝利した。
自らを泥の中でたくましく生きるドジョウになぞらえる演説で話題となり、野田内閣は「ドジョウ内閣」などとも呼ばれた。
2022年に起こった銃撃事件で死去した安倍晋三元首相への国会追悼演説を行い「憲政史に残る名演説」と評価された。

民主党政権の失敗と教訓

民主党政権が発足した時、多くの国民はそれまでの自民党政権とは政治が大きく変わる事を期待していた。
鳩山政権発足時の支持率70%という数字には、国民の高い期待度がよく現れていた。

政権が代わっても、現実は変わらず

しかし現実を見れば、民主党政権も自民党政権と同じ事しか出来なかった。
自民・麻生政権は消費税の増税を掲げ民主党に政権を奪われたが、その政権を奪った民主党も、結局は消費増税を決めてしまった。
普天間飛行場についても「最低でも県外」と言っていた鳩山由紀夫本人が「県内に移設する」と閣議決定してしまった。
僅か三年間のうちに三回も総理が代わり、国会も自民党政権と同様にねじれてしまった。

無責任な公約を鵜呑みにしてはならず

例え政権を代えても、変えられない現実が多く在るという事。
民主主義において、政治家が選挙に勝つ為に無理なポピュリズム(大衆迎合主義)に走る事はよくある。
しかし、そうやって当選した政治家は、自分が約束した公約を守る事など出来ないのだ。
では逆に「政権を代える事で変えられる事とは何なのか?」とよく考えなければならない。


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