第二次上田合戦

第二次上田合戦

第二次上田合戦は1600年9月、関ヶ原に向かう徳川秀忠と、西軍に属した真田氏との戦い。
中山道を通って西へ向かっていた徳川秀忠率いる東軍3万8000人の軍勢は、西軍・真田昌幸を討伐する為に上田城に攻め寄せた。
昌幸は巧みな戦術で秀忠軍を翻弄。
この結果、秀忠は関ヶ原の戦いに遅参する事になった。
なお、“当時の信頼できる史料”には、この“合戦に関する記述はない”。

西軍に付き、徳川と戦う真田昌幸

三成討伐に動く家康

上杉攻めのため小山(栃木県)まで進んだ徳川家康は、1600年7月24日、石田三成挙兵の報を受け取り、翌日、全軍の諸将を進めて軍議を開く。
この小山会議において、家康率いる東軍は三成の討伐を決定。

昌幸は東西両軍に家族を分ける

このとき家康軍に参加していた真田昌幸は、真田家を残す為、嫡男・信之は東軍方で、次男・幸村と自分は西軍方で戦う事に決める。
小山から江戸城に戻った家康は9月1日に出撃して東海道を西へ進む。
家康の子・秀忠は8月24日に宇都宮城を出陣し、中山道を西上した。

秀忠が真田と接触

徳川方に付くフリで時間を稼ぐ昌幸

9月2日、秀忠率いる約3万8000人の徳川主力軍が小諸に到着。
ここで秀忠は昌幸に対して徳川方に付くよう勧告する。
当初、昌幸は従うそぶりを見せるが、単なる時間稼ぎであった。
昌幸は嫡男・信之を通して助命を懇願してみせるが、マンマと騙された秀忠はこれを受諾している。
さらに昌幸は“幸村の護る戸石城を一度開城して秀忠に接収させる”という縁起までこなした。

油断させてから“動いた”昌幸の策

ところが4日になり昌幸は急に態度を変え、秀忠に対して挑発的な態度を取り始める。
これに激怒した秀忠は6日、昌幸を挑発する為、上田城周辺の稲を刈り始める。
これを見た昌幸は自ら騎馬隊を率いて出撃し、徳川軍と衝突するが、敗走を装って退却し、巧みに徳川軍を上田城内に誘い込む。
昌幸軍を深追いした徳川軍は、隠れていた伏兵に一斉射撃を浴び、大混乱に陥った。
続いて昌幸は、総崩れとなって上田城から撤退する徳川軍が神川を渡ろうとしたところで、上流に築いていた人口堰を切る。
一気に流れ下った濁流は、多くの徳川軍兵士を飲み込んでいった。

秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻

8日、小諸まで兵を退いた秀忠の下に、父・家康が江戸城を出陣して上洛に動くとの報せが入る。
秀忠は大慌てで軍勢を向かわせたが、秀忠軍は15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

第二次上田合戦は創作?

第二次上田合戦だが、実は“戦”に関しては創作の可能性が高い。
18世紀に編纂された徳川家康の伝記である『烈祖成績』に「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記されており、大規模な合戦が行われ秀忠軍が大敗し、この敗戦により関ヶ原合戦に遅参したと考えられていた。
しかし、この『烈祖成績』が編纂されたのは関ヶ原の合戦から100年以上の年月が経っており、しかも、合戦当時の史料には大規模合戦の事が全く記されていないのだ。
家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみである。
神川と人口堰の“水攻め”の様子はあまりに「第一次上田合戦」に酷似しており、流石に徳川軍が同じ戦術に二度も引っかかるとは考え辛い。
「歴史は頻繁に嘘を付く」という事を忘れてはいけない。


↑ページTOPへ