邪馬台国はどこにあった?

邪馬台国はどこにあった?

古代史最大の謎である邪馬台国の所在地、九州説と畿内説の論争は300年以上も遡る。
文献資料における考察だけでなく、発掘調査を用いた統計学なども踏まえ、邪馬台国が何処にあったのかを探る。

邪馬台国論争 帯方郡より邪馬台国への道程

邪馬台国の所在地については、近畿説と九州説が有力である。九州説では、「魏志」倭人伝に記された帯方郡から邪馬台国にいた道程で、伊都国以降の国々を伊都国を中心に放射状に位置づける解釈によって、邪馬台国を九州北部にあったとする。近畿説では、伊都国以降の方位について南は東の誤りと解釈し、邪馬台と大和の音の一致、3世紀の大型墳丘墓や大規模集落遺跡の存在などを説の根拠とする。(『詳説日本史図録』山川出版より引用)
邪馬台国の時代の九州北部の小国『詳説日本史図録』山川出版より

当時の九州北部の小国、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国までは比定地がわかっている(『詳説日本史図録』山川出版より引用)

九州説と畿内説

邪馬台国が何処に存在したかという議論は、江戸時代から300年以上も続いている。
江戸時代中期の儒学者松下見林は人生を掛けて30年以上にわたって古典籍を調べ上げ「邪馬台国は大和である」という結論にたどり着いた。
これに反論したのが、見林の一世代後になる新井白石で、大和説を否定し、邪馬台国は筑後の山門郡だろうという説を著書に残している。
現在まで続く畿内説と北九州説は江戸時代には出揃っていた。

邪馬台国への道筋

邪馬台国は中国の歴史書にしか出てこない

何故、邪馬台国の所在地が確定できないかというと、邪馬台国の場所を探る為の文献資料が『魏志倭人伝』しか存在せず、更にその記述に疑問点が多いからである。
倭人伝には邪馬台国の位置を帯方郡(朝鮮半島の中部:現在の平壌付近)から南島1万2000里の場所としているが、これをそのまま読むと、赤道付近の海に邪馬台国が存在した事になるのだ。
その為、倭人伝の記述に、研究者ごとの解釈を加え、邪馬台国の所在地を考察し続けて来たわけだ。

朝鮮→対馬→佐賀→福岡→??

邪馬台国への出発点は帯方郡、そこから朝鮮半島南部の狗邪韓国、そして対馬国へと海を渡り、伊都国など北九州の諸国に入る。
ここまでは九州説も畿内説も対立はない。
しかし、ここから「不弥国→投馬国→邪馬台国」間の移動日数を合計すると、「南へ水行20日+さらに南へ水行10日、陸行1月」という長旅となってしまう。

九州説の邪馬台国への道のり

九州説では、この距離の記録は倭人伝の誤記、もしくは敢えて遠方に書き換えた虚偽記載だとして日程を短縮するように読み解いた。
例えば陸行1月は1日の誤り、「水行10日、陸行1月」は水行と陸行の日程を足すのではなく「水行なら10日、陸行なら1カ月」の意味とする、などだ。
また倭人伝で使われる一里の単位は当時の中国で一般的だったおよそ434メートルではなく、特別に短い「短里(100m前後)」だったのではないかとする「短里説」も登場した。
更には「伊都→奴→不弥→投馬→邪馬台国」と続く行程は順に足すのではなく、伊都国を起点としたそれぞれ個別の距離表記だったと読む「放射説」も提唱され、場所を九州内に収める「工夫」が重ねられてきたのだ。

九州説では邪馬台国の位置は未確定

このように距離の取り方には諸説ある為、九州説といっても場所は一か所ではなく、北九州方面でも福岡周辺、博多湾岸、白石以来の筑後説などが並立している。
また、本居宣長が主張した「卑弥呼=熊襲の女酋説」に立った鹿児島県曽於郡説、「卑弥呼=神功皇后説」によって神功皇后所縁の宇佐神宮一帯を邪馬台国とする説なども見られる。

畿内説

「南」ではなく「東」と解釈

畿内説では大胆に「南」とある方角を「東」と読み替えて行き先を本州に誘導している。
これも倭人伝の誤植だという主張や、古代中国人の地理認識では日本列島は南北に伸びるものと思われていた為、編纂者が思い込みで方角を間違えたのだという考えがある。
東に進むと九州説の様に距離を短く読み直す必要はなく、比較的スムーズに畿内まで辿り着く事が出来る。

奈良が有力候補地

畿内説における邪馬台国の所在地は勿論、奈良であり、纏向遺跡、箸墓古墳を擁する奈良盆地東南部は現在、最も有力な候補地だ。
また、畿内説には他の候補地として、三角縁神獣鏡の出土地に注目した大阪説(和泉黄金塚古墳の所在地)や、京都説(椿井大塚山古墳の所在地)、やや離れて琵琶湖畔や吉野地方に比定するモノもある。

結局、九州か畿内か?

九州説と畿内説でどちらが可能性が高いかは一概には言えないが、総論的には、九州説は距離の問題さえ解決すれば、地名なども合致するものが多く、北九州地方で発見されている膨大な弥生時代の考古学資料も九州説に有利だ。
一方の畿内は、ヤマト政権以来日本列島の歴史の中心にあった場所であり、邪馬台国の首都であっても遜色のない場所といえる。
ただし、畿内が政権の中心地であったからと「畿内は昔から日本の都だったに違いない」という思い込みは危険である。
もしかしたら、邪馬台国の時代、九州から畿内へと都が動いていた時期であった可能性も捨てきれないからだ。

結論、文献資料だけでは所在地は分からない

邪馬台国の所在候補地だが、畿内・九州だけではなく、日本全国ともなれば数えきれない程の候補地がある。
新潟や出雲、更には邪馬台国は存在していなかった架空の存在であった、はたまた邪馬台国は東南アジアにあった、など無数に説があるのだ。

魏志倭人伝は(主に)九州の話をしている

『魏志倭人伝には、邪馬台国の周辺の国として伊都国や奴国の存在が記されるが、これらの国々は九州にあったことが確実視されている。そのため、『魏志倭人伝』の記述は北部九州の邪馬台国時代の状況を記しているといえる。

発掘調査と地理的状況を考えると…

邪馬台国は中国と交流していたが、北部九州にはそれらを示す遺物が数多く出てくる。
さらに、当時は鉄が政治・経済的にも重要な位置を占めていたが、近畿地方では弥生時代の鉄製品の出土が極めて少なく、鉄の流通の中心が北部九州にあった。
当時はまだ駅制や文字(書状&木簡)による連絡手段が確立しておらず、伊都国や奴国などの九州諸国と畿内諸国が緊密に連携できたとも思えない。

統計学で探る邪馬台国の位置

「統計学」で探す邪馬台国

文献資料だけでは分からない邪馬台国を探す為「統計学」という新たな視点から調査を行う研究者がいる。
邪馬台国九州説の立場から積極的な発信を行う古代史研究家の安本美典氏だ。

ベイズ統計学

安本氏は「ベイズ統計学」と呼ばれる手法を用いてこの問題の分析を試み、その結果を『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版)と発表している。
ベイズ統計学は、18世紀のイギリス人数学者トーマス・ベイズが考案した統計手法で、簡単に説明すると、独立した複数のデータを掛け合わせる事で、より確かな確立を求める手法だ。
現在ではスパムメールのフィルタリングなどにも活用されている、信頼性の高い手法だ。

文献と発掘、両方を踏まえた科学調査

安本氏は『魏志倭人伝』に記述があり、且つ考古学的な発見が多量にあって統計データとして有効とされる遺物をピックアップし、その出土地域が「邪馬台国である確立」を求めた。
具体的には、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「道鏡」、倭人の使う武器として記されていた「鉄鏃(鉄のやじり)」、卑弥呼を継いだ女王・台与が魏に献上した品物とされる「勾玉」、そして魏からの下賜品にも、倭国からの献上品にもラインナップされている「絹」の4遺物の出土点数を各県別にカウント。
鏡、鉄、勾玉、絹がそれぞれ、どの地域からどれだけ出土しているのかというデータを掛け合わせる事で、邪馬台国の所在地であった可能性が最も高い場所を浮かび上がらせようと試みたのである。

鏡・勾玉・鉄器など、北部九州が遺構が多い

鏡を例にとると、邪馬台国が魏と交流を持っていた西暦250年以前の道鏡の出土数を都道府県別に並べると、総数64面のうち福岡県の出土例が30、佐賀県と愛媛県が各5、京都が4、奈良と兵庫がそれぞれ3ずつとなる。
特に九州説、畿内説それぞれの中心地である福岡・奈良両県に絞って比較すると、鉄鏃の出土数は398対4、鉄剣46対1、ガラスや翡翠製の勾玉の数は29体3、といったようになる。
(数字は安本氏『「邪馬台国畿内説」徹底批判』より)
更に『日本書紀』にみられる地名の統計においても同様の傾向がみられ、九州北部が有力地とされることが導き出された。

統計学的には邪馬台国は九州・福岡

こうしたデータから安本氏が得た各県別「邪馬台国所在地の確立」は、
福岡県 99.9%佐賀県 0.1%長崎県 0.05%未満奈良県 0.05%未満
で、エリアを九州圏、近畿圏と広げてみても、数値は、
九州 99.7%近畿 0.3%
という結果が出ており、九州説にとっては、とても心強い「結論」が出された訳である。
ただし、邪馬台国論争においては、もとより出土品では九州有利、遺跡では畿内有利と言われており、九州説の弱点とされる邪馬台国時代の大規模遺跡の有無といった問題については、この手法では答えられていないという面もある。
実際、同年代の遺跡である纏向遺跡と吉野ケ里遺跡では大きく纏向の方が発展しているうえ、吉野ケ里は福岡ではなく佐賀である。

結論、邪馬台国の所在地は分からない

畿内での出土品が少ない事については、畿内説派からは「水田や市街地が多い近畿地方では発掘が難しい事も一因だ」という真っ当な反論もある。
また鉄器についても、北九州の花岡岩性土壌に比べて奈良盆地の湿地帯は鉄器を溶かし易い性質があり、遺物が遺り辛いのだという見方もある。
邪馬台国論争はまだまだ終わらないだろう。


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