狗奴国

場所も分からない狗奴国

邪馬台国の南に在ったとされる狗奴国

邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)。
この狗奴国は果たしてどこに在ったのだろうか?
倭人伝によると、3世紀の倭国(日本)で、「邪馬台国の尽きるところ」である「奴国」の南に位置したとされる。
肝心の邪馬台国の所在地が確定していない為、この狗奴国もまた、全てが闇に包まれた存在である。
また、狗奴国について『魏志倭人伝』には、「男王「卑弥弓呼(ひみここ)」がおり、官を狗古智卑狗(くこちひこ)と言った。卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。」と記述されている。

狗奴国の歴史

狗奴国に関して、邪馬台国との対立・戦争の結果がどうなったのかも含めて、その後の歴史は全く分かっていない。
邪馬台国に勝利し、ヤマト政権の基礎を築いたのは狗奴国だったとする学説や、魏の援護を受けた邪馬台国に敗れて滅亡したとする説、九州南部に勢力を維持し、生き残った子孫が熊襲となった、とする説などがあるが、どれも決定的な証拠はなく、推測の域を出ていない。

狗奴国はどこにあったのか?

九州と東海地方が狗奴国の候補地

狗奴国の候補地として有力視されているのが九州地方と、東海地方だが、他の各地にも比定地が存在する。
各説を見てみる。

邪馬台国の位置によって、場所が定まる

『魏志倭人伝』の「狗奴国は邪馬台国の南」との記述をそのまま信用するか、方位に間違いがあったとするかで、大きく狗奴国の比定地は変わって来る
また古墳の形に象徴される文化の差に注目するか、など狗奴国の比定問題も論点は様々で、邪馬台国と同じくらいの難問と言えそうだ。

畿内説の場合

畿内説では方位を南から東に読み替えている為、畿内よりも東であれば比較的自由に場所を推定できる事になり、東日本の各地に狗奴国候補が登場する事となった。
狗奴国連合の象徴とされる前方後円墳が東日本に広く点在している事も理由の一つになっているかも知れない。

北関東説

畿内から一番遠い候補地である北関東説では、上毛野(かみつけの)、現在の群馬県あたりを推定している。
上毛野は古代の東国では最も繁栄した場所で、東海地方からの大量の人口移動によって、3世紀頃から大集落が造られ始めている。
東海地方のある集団が、東京湾から荒川水系を遡上して、水田の開発に相応しい毛野の平野にたどり着いたものらしい。
古墳時代前期には全長130メートルという東日本最大の前方後円墳、前橋八幡山古墳も造られていて、『日本書紀』には北関東の首長とヤマト政権が互角に渡り合ったともとれる争いが在った事が記されている。

呉と繋がりが在った山梨説

山梨県の鳥居原狐塚古墳からは、国内でも2面しか出土例のない呉の年号「赤鳥元年」(238年)と記された銅鏡が発掘されている。
邪馬台国は魏と交易を結んでいた為、魏と対立関係にある呉とは接触がなかったと考えられている。
呉鏡の存在の裏には、邪馬台国とは別のルートで呉と関係を結んでいた勢力があるのでは、ならばそれこそ邪馬台国と対立していた狗奴国だった、という見方もある。

その他の東海地方説

東海地方説にも、伊勢湾を中心に伊勢方面説、濃尾平野説、駿河湾岸まで求める説など数多くの説があるが、『国造本紀(偽書)』にある遠江(静岡西部)の「久努国造」に着目して、久努こそ狗奴国の継承地とする説もある。

九州説

九州説では、女王国の東には狗奴国とは別の倭人の国々があるとされている事から東行説を否定し、あくまでも狗奴国と邪馬台国は南北の位置関係だとして九州南部に狗奴国を想定する。
『記紀』に登場するクマソ(熊襲)を名称から狗奴国と比定し、現在の熊本県あたりを狗奴国と考える事が多い。
九州南部に狗奴国が在ったとするならば、不思議な名前の狗古智卑狗も、キクチヒコと読めば熊本県菊池地方の主(彦)と解釈でき、位置的にも整合性がある。
その他の熊本よりさらに南部、宮崎県や鹿児島県を狗奴国とする見方もある。

四国説

本居宣長(江戸時代の学者)は四国の伊予説を唱えているが、邪馬台国も狗奴国も全て四国に在ったとする説もあり、非常に多くの説が存在する。


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