共和制・帝政ローマ

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共和制ローマ

共和制を導入し、イタリア半島を統一

狼に育てられた双子の兄弟ロムルスとレムスが建国したという伝説を持つ古代ローマ
前6世紀末、ラテン人の都市国家ローマが支配者のエトルリア人の王を追放し、共和制を開始した。
共和制は、2名の執政官(コンスル)と貴族によって組織された元老院によって指導されていた。
しかし前5世紀に入ると、貴族と平民の対立が激化し、平民の権利を守る護民官の設置、平民だけの民会の開催、さらに貴族による法の独占を打破する十二表法が制定された。
また前4〜前3世紀には、公職の平民への開放(リキニウス・セクスティウス法)や、平民会の議決を国法と認める(ホルテンシウス法)など、平民の権利が拡張され、裕福な平民が新貴族となり、従来の貴族と共に新しい支配層を形成するようになった。

帝国支配の原型、分割統治

ローマは対外的には、前4世紀以降、近隣の都市や諸民族と戦い、領土拡大を続けていた。
前3世紀前半、南部のタレントゥムを占領し、イタリア半島を統一した。
このときローマが行った他都市の支配は、都市ごとに格差をつけた処遇を施す分割統治といわれるもので、こうした政策が後のローマ帝国による支配の原型となった。

ポエニ戦争で勝利し、地中海の覇者となったローマ

さらに、ローマは西地中海の制海権を求めて、北アフリカのカルタゴ(現チュニジア)と3回ににわたるポエニ戦争を起こした。
第1回の戦争(前264〜前241)に勝利し、シチリア島とサルディニア島などを獲得。
第2回の戦争(前218〜前201)では、象の軍隊を率いて北から侵攻してきた敵将ハンニバルに苦戦するが、ザマの戦いに勝利し、イベリア半島南部などを奪い属州とした。
そして、第3回(前149〜前146)で遂にカルタゴを滅亡させた。
同年にマケドニア、その後もシリア、ガリア、エジプトと征服し、「地中海世界」の覇者となった。

帝政ローマの誕生

共和制から三頭政治へ

急速な領土の広がりによって、ローマ経済が混乱する

前2世紀、地中海各地を属州に治めたローマだったが、次第に内政は悪化していった。
戦争で荒れた農地を買い集め、属州から流れ込んだ奴隷労働力を使役するラティフンディア(大所領)が生まれる一方で、属州からの安価な穀物が輸入されて中小農民が没落、無産市民化し、彼らが担っていた重装歩兵は解体されて傭兵制となっていった。
ローマの共和政が危機に瀕したのである。

第1回 三頭政治

グラックス兄弟による土地再分配などの改革も、元老院の妨害に合って頓挫し、あくまで元老院を守ろうとする閥族派と平民会を根拠とする平民派が対立した。
また剣闘士奴隷スパルタクスの蜂起や属州の奴隷反乱も相次いで、約1世紀の間、ローマは内乱状態となった。
権力闘争が続く中、前60年、東方を平定した将軍ポンペイウスと平民派カエサル、大富豪クラッススが密約を結び、元老院と対立する三頭政治を開始した。

アクティウムの海戦で勝利 オクタヴィアヌスの帝政開始

しかし、クラッススの死後、三頭政治は崩れ、前46年、ガリアを治めて勢いにのったカエサルが元老院と結んだポンペイウスとの戦いに勝利して独裁者となった。
カエサルは、貧民救済や植民事業、太陽暦(ユリウス暦)の採用など様々な改革を行ったが、共和政信奉派のブルートゥスらによって前44年に暗殺された。

第2回 三頭政治

カエサル暗殺後の混乱を収集したのは、カエサルの養子オクタヴィアヌス、カエサルの武将アントニウスレピドゥスによる第2回三頭政治だった。
東方の統治にあたったアントニウスがエジプトのクレオパトラと結び、ローマの分断を謀った為にオクタヴィアヌスと対立、前31年のアクティウムの海戦へと至った。
これに敗れたアントニウスとクレオパトラは翌年に自害し、エジプト王国は滅亡。

ローマの帝政が誕生

勝利したオクタヴィアヌスは前27年、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈られ、事実上の皇帝となり、ここにローマの帝政が誕生した。


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