ムガル帝国とインドの植民地化

インドのイスラム国家 ムガル帝国

インドでのモンゴル帝国再興を企図したムガル帝国だったが、ヒンドゥー教徒に対する政策を誤り、衰退への道を辿る。
そして、時がたった1877年、東インド会社を使ってインド支配を勧めたイギリスによって、ムガル帝国は滅ぼされ、インド全土が植民地支配される事になる。

ティムールの子孫が、インドでモンゴル帝国を再興

北インドでは、13世紀以来、デリー・スルタン朝と呼ばれるイスラムの5王朝が興亡を繰り返し、イスラムのインド支配を進めていた。
1526年、ティムール(モンゴル=テュルク系軍事指導者)の子孫であるバーブルは、北インドに進出しデリーを占領、ムガル帝国を建てた。
ムガルとはモンゴルの事を指し、バーブルがモンゴル帝国の復興を企図していた事が伺える。

ヒンドゥー教への融和政策

孫の第3代皇帝アクバルは、ムガル帝国の安定した国家運営を行う為、ヒンドゥー教徒との融和策を取っている。
ヒンドゥー教徒の諸侯の娘と結婚したり、ヒンドゥー教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止するなどの政策をとっている。
この時代には首都をアグラに遷都し、帝国の版図を広げた。

封じたはずの、ヒンドゥー教への弾圧が始まる

その後、第6代皇帝アウラングゼーブまでがムガル帝国の全盛期である。
アウラングゼーブはデカン高原(インド半島の大部分を構成する東西ガーツ山脈にいたる台地)以南の平定を進めたが、ヒンドゥー教徒に対しては圧迫を加え、人頭税を復活させたり、ヒンドゥー寺院を破壊するなどしたため、やがて帝国の衰退を招いてしまう。

ムガル帝国時代のイスラム文化がインドに残っている

ムガル帝国時代は、インドの広い範囲がイスラム化しており、インド古来の分化と融合して、独自のインド・イスラム文化が発達している。
第5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き愛妃の為にアグラ郊外に建てたタージ・マハルは、この時代の代表的なイスラム建築物として有名で、ユネスコの世界文化遺産に指定されている。

ムガル帝国の滅亡

海洋進出したイギリスによって、インドが植民地化

1600年、東インド会社が設立され、ポルトガルやオランダに続いてインド洋交易に参加したイギリスが、以後本格的にアジアへ進出に乗り出す。
イギリス東インド会社は1757年のプラッシーの戦いで、フランスと結んだベンガル太守(ムガル帝国地方長官)軍を破り、1765年にはムガル帝国からベンガル地方の地税徴収権を獲得。
さらに諸王国が次々と征服されていき、19世紀半ばのシク戦争でパンジャーブ地方がイギリスに剥奪された結果、インド全域がイギリスの支配下となった。

イギリス領インドの成立

イギリスは地税確保のため、納税者にだけ土地の所有権を認めた事から、地主や農民の多くが没落した。
また、産業革命が進んでいたイギリスから機械生産による木綿などが大量に流入するようになり、インドの手工業者らを圧迫する。
そのため、イギリスに対するインド人の不満は高まり、1857年、ついにセポイ(シパーヒー)の反乱が勃発した。
この反乱は没落した地主や農民、手工業者、さらにムガル皇帝をも巻き込んだインド大反乱へと拡大したが、組織化されたイギリス軍によって鎮圧された。
その後、イギリスはムガル皇帝を廃して帝国を滅亡させ、1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立された。


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