康熙帝

清の四代皇帝 康熙帝

康熙帝(こうきてい)

清帝国の最盛期を築いた名君

康熙帝(1654〜1722年)(こうきてい)は清の四代皇帝。
漢人武将・呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧したほか、台湾の鄭氏を討って中国の統一を達成する。
1689年にロシアとネルチンスク条約を締結し、北方の国境を画定した。
外モンゴル青海チベットを服属させ、清朝最盛期の基礎を築く。

中国史上最高の名君の一人

清の康熙帝は、中国史上最長となる61年の在位を記録した。
康熙帝は、唐の太宗をはじめとする名だたる皇帝と並ぶ、中国史上最高の名君の一人に挙げられている。
その表面的な事績だけをみても、三藩の乱の鎮圧や、台湾平定により、真の意味で中国統一を達成した。
さらに、清の支配領域を外モンゴルやチベットまで拡大している。

治水整備などの都市開発

漕運(そううん:首都への水運制度)を整備して物流を活発化させたうえ、黄河の治水などで経済を立て直すなど、後の雍正帝(ようせいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)へと続く清朝最盛期の礎を築いた。
ただし、彼の事績の一つであるネルチンスク条約の締結に関しては、当時、あまり評判が良くなかったようだ。
理由は、この条約がロシアと対等な関係で結ばれた講和条約だったからだ。

ロシアとネルチンスク条約を締結

中間を世界の中心と考える中華思想では、他国と対等な条約を結ぶなどありえなかったのだ。
事実、条約締結を国内に発表する際は、条文で「両国」となっている部分を「清朝と共に」とするなどの改ざんが行われたという。
ところが、結果的にこのネルチンスク条約は、清が西洋諸国と対等な関係で結んだほぼ唯一の講和条約となった。
そして、皮肉にも、19世紀以降、西洋列強による浸食で数々の屈辱的な不平等条約が結ばれるようになってから、再評価されるようになったのである。

非常に優れた才能を持った人物

そんな康熙帝は幼いころから優れた才覚を持っていた。
彼は8歳で即位した為、政治は4人の補政大臣が取り仕切ったが、中でも野心を持っていたオボイは、反対派を失脚させるなど権力の独占を謀っていた。
これに対し、康熙帝はモンゴル相撲に熱中して指示に関心を示していないように装って油断させておき、16歳になった1669年、機を見計らってオボイを投獄して新政(政治を行うこと)と執ったのである。
オボイを捕らえる際も、相撲遊びのフリをして、仲間で一斉に取り押さえたといわれている。

伝統学問から、西洋の学問も学んだ勉強家

また、「書を読むこと一巻なれば一巻の益があり、一日読むと一日の益がある」などといって学問を奨励し、「康熙字典」や「古今図書集成」の編纂、「皇輿全覧図(こうよぜんらんず)」の作製を進めた康熙帝は、自らも大いに学問を愛した。
中国伝統の儒学だけに留まらず、来朝したイエズス会宣教師から天文学や数学、医学、化学、果ては音楽までも熱心に学んだという。
フランス人宣教師に翻訳させた解剖書「格体全録(かくたいぜんろく)」には、康熙帝自身の書き込みがいくつもあったという。



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