古代クメール王朝

古代クメール王朝

クメールのアンコール王朝

古代クメール王朝は、9世紀から15世紀まで現在のカンボジア東南アジアに存在していた王国。
クメール王朝で、最も栄えたのはアンコール王朝である。
血縁を排し、実力本位の王制で、諸王は自らの力を誇示すべく、壮大な王都を築いた。
18世紀ごろまでは、マヤ遺跡との関係まで調べられた程、謎の多い文明であった。

フランス人学者アンリ・ムオー

1860年1月23日から3週間、フランス人博物学者アンリ・ムオーは、アンコール遺跡を観察し、多数のスケッチを行った。
ムオーのアンコール遺跡探訪記は、世界中の注目を集めた。
多数の堂塔、回廊でつながれた大伽藍(だいがらん)が、カンボジアの密林の奥深くに眠っている。
壁は崩れ、倒壊の危機にさらされているようではあったが、壁面には精巧な浮彫が施され、かつての栄華を今に伝えていた。
人々は、失われた大文明を臣を馳せたのである。

忘れられた文明

不幸な事に、その遺跡の存在は、現地の人々からは忘れられていた。
隣国のベトナムシャム(タイの旧称)との戦争に連敗し、カンボジアは民族の存亡すら危ぶまれていたのだ。
18世紀末から、アンコール遺跡地域はシャム領となり、遺跡のほとんどは密林に埋もれてしまっていた。
アンコールワットだけが、仏教寺院に衣替えして近隣の住民に崇められていた。

東京都よりも大きな遺跡

当時、この地を訪れた人々は、まさかこの戦乱に疲弊した貧しい人々の祖先が、この大遺跡の建設者だとは考えていなかった。
アンコール遺跡の地図を東京都の地図に重ねてみると、その大きさが分かる。
東京23区全域を覆う大きさなのだ。
アンコールワットの北に広がるアンコールトム(ジャヤヴァルマン7世の都城)は、周囲12km、ちょうど江戸城と同じ規模である。

碑文以外、文字による記録がない

アンコール遺跡群の壮大さが明らかになるにつれて、アンコール遺跡はカンボジア人とは異なる民族によるものだと信じられた。
ローマ人、アレキサンダー大王、あるいはマヤ、アンデスの名前まで上がったという。
確かに、メソポタミア文明の影響を感じさせる浮彫や、マヤ文明の神殿に非常に似た建築物が数多く存在しているのだ。
アンコールトム南大門手前の密林中にひっそりと立つバクセイ・チャンクロン寺院などは、マヤ文明のティカル神殿に非常に似ている。
しかし、現在では、残された碑文が解読され、それらの遺跡がカンボジアの人々によって建造された事が分かっている。

ヒンドゥー教の神に捧げる寺院

アンコールワットは、スールヤヴァルマン2世(1113年即位〜1150年頃没)によって建設された寺院である。
即位してすぐに寺院建設をはじめ、30年余りの年月を費やして、完成させた。
周囲を幅広い環濠で囲み、盛り土した土台の上に3重の回廊が造られ、中央部に本殿が建てられた。
ヒンドゥー教の神ヴィシュヌに捧げる寺院であり、王の墳墓でもあったとされている。
寺院は外周を幅広い環濠(1.3×1.4km)で囲まれ、西参道入口から中央神殿までは700mある。
濠を渡り、西塔を抜け、中央寺院へ至る道のりは大人でも30分はかかるという。

象ごと通れる門

この西塔門の両翼には「象の門」があり、象に乗ったまま入る事が出来る。
象は王族などの乗物であり、戦争時には象軍も使われた。
人が通には大きすぎる塔門も、象にのって通り抜ける為と考えれば、納得できる。

王と神話を重ねて、国家の正統性を表現

中央寺院寺院回廊の壁面は、天地創造の神話などの浮彫で埋め尽くされている。
近隣の征服などの王の業績は、これらの神話の事跡に重ねられて、褒め称えられている。

世界の形を示した城

アンコールワットは、当時の宗教的宇宙観を表現する舞台装置でもあったという。
65mの中央堂塔は、世界の中心の山、メール山(須弥山(しゅみせん))であり、周壁はヒマラヤ山脈、環濠は無限の海だ。
つまり、スールヤヴァルマン2世のアンコールワットは、王の神聖さの象徴であったのだ。

豊かな水源と、多くの人々に支えられたアンコールワット

この大建設を支えたのが、農業生産活動だった。
雨季に増量したメコン川の水を貯える大貯水池が築かれ、周囲には豊かな水田が開かれた。
収穫の季節には「米の長」が村々を回り、アーカラという現物税を徴収していた。
また、税の他に勤労奉仕も課せられていた。
アンコールの大伽藍は住民や戦争捕虜の労働の賜物だったのである。

アンコール王朝の権力闘争

豊かな環境にそぐわぬ過酷な王位継承

西暦802年、ジャヤヴァルマン2世に始まるアンコール王朝。
最盛期には近隣を含めると12万人の人が住み、約500の祠堂(しどう)や僧院には灯燭がともされ、木造の王宮の高楼や大臣たちの邸宅が並んだ。
都には堀が巡らされ、都の周囲の水田は豊かな実りを約束していた。
だが、アンコール遺跡を豊かな農業生産に支えられた平和な王都の地ととらえるのは早計なのだ。
802年から14世紀半ばまでのアンコールの諸王のうち、名前が知られている王は26名いる。
ところが、そのうち実子、または兄弟が王位を継承した例は、わずかに8例だけなのだ。

自分の子を王に出来るとは限らない

普通、王朝といえば、血縁に結ばれた王族の間で王位が継承されていく。
しかし、アンコール王朝では、事情が異なったのである。
アンコールワットの建設者スールヤヴァルマン2世の王位継承も異常であった。
碑文には、王位争奪の戦闘の最中、王が前王の象の首に飛び掛かり象を指し殺した様子が記されている。

世襲が定着しなかった王朝

アンコール王朝の王位は、権威と正統性による世襲制が定着しておらず、武力によって、実力主義によって王位が継承されていったのだ。
話し合いで収まる事もあったが、血で血を洗う戦いにまで発展する事もあった。
王は、常に地方の有力者や強力な謹慎を統御しなければならなかった。
油断すれば、王位が簒奪されてしまったのだ。
ウダヤディティヤヴァルマン1世(1000年頃即位)は、即位後わずか1年で謎の死を遂げている。
アンコールの王たちは、自らの命を懸けて、王位をめぐる争奪戦を戦っていたのである。

即位の儀式と寺院造営

実力によって、前王を倒すと、新王はまず転輪聖王(てんりんじょうおう)になるべく、バラモンが聖別式を執り行い、正式に王位に就く。
次に、新王は、新しい寺院の建設を始める事になる。
アンコール王朝では、前王が残した寺院は使えなかったからだ。
そのため、アンコール遺跡には多くの寺院が残されているのである。
密林に埋もれた聖都アンコールは、王たちの権力争奪戦の残した遺産だったのだ。

即位後も実力を試され続ける王

歴代の王たちの中では、新たに寺院を造る事が出来なかった者もいたようだ。
逆に、強力な力を持った王は、多数の寺院を造っている。
ジャヤヴァルマン7世(1181年即位〜1218年?没)は、国内各地に大寺院と大貯水池を造り、高い城壁で囲まれた巨大都城アンコールトムを造営する。
実は、アンコールの王たちの最終目標は、この都城をアンコール地域に造営する事であったらしい。
だが、そのためには人力と財力を投入しなければならなかった。
つまり、長期間権力を維持し続けなければならなかったのだ。
26人以上もいた歴代の王たちのうち、聖都に都城を造営するという、アンコールの権力闘争の本懐を果たせたのは、僅か4人の王に過ぎなかった


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