オスマン帝国の衰退

オスマン帝国の衰退

強力な中央集権体制の下、中東地域広域を支配下に置き、ヨーロッパ諸国へ脅威を与えたオスマン帝国
しかし、徐々にその国力を列強に引き離され、地方勢力の台頭を押さえる事が出来なくなっていた。
勢力が衰退したオスマン帝国は、改革の動きも実らず、解体への道を進む事になる。

オスマン帝国の衰退と地方勢力の台頭

16世紀には最大版図となったオスマン帝国だが、17世紀になると、その勢いは衰えを見せ始める。
1683年の第2次ウィーン包囲に失敗してハンガリーの大半を失うと、続く18世紀にはエジプトやシリアなどで地方豪族が台頭し、中央集権体制に綻びが生じるようになる。

力を付けたエジプトを押さえられなくなる

18世紀後半、ナポレオンに占領されたイギリスと結んで奪還したオスマン帝国だったが、その混乱の中、傭兵隊を率いたムハンマド・アリーがエジプト総督となってエジプトの実権を握った。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国の命を受け、アラビア半島のワッハーブ王国を制圧した他、1821年に始まったギリシア独立戦争を鎮圧する為、出兵した。
その後、列強の干渉によりギリシアは独立を果たすが、エジプトは出兵の見返りにシリアの領有を要求する。
これを拒否したオスマン帝国と2度にわたってエジプト・トルコ戦争を戦った。

列強の干渉により、解体の足音が近づく

列強の介入「東方問題」

ギリシア独立戦争やエジプト・トルコ戦争を切っ掛けに、オスマン帝国は東地中海や黒海周辺の利権を争うイギリス・フランス・ロシアといった列強の介入を招く事となった。(東方問題)
こうした事態に対し、オスマン帝国は行政組織等の西欧化を目指すタンジマート(恩恵改革)を実施するが、十分な成果は上がらなった。

近代化を試みるも、失敗に終わる

1853年に始まったロシアとのクリミア戦争では、イギリス・フランスの支援によって勝利はしたものの、その戦費によって財政が破綻してしまう。
1876年には、改革派の宰相(さいしょう)ミドハト・パシャが起草したイスラム世界初の近代憲法であるミドハト憲法が発布される。
しかし、1877年にロシア・トルコ戦争が勃発すると、スルタンのアブドゥル・ハミト2世が憲法を停止し、専制政治を復活させた。

エジプトの利権は列強へ移る

ムハンマド・アリー朝の統治が認められたエジプトも、スエズ運河の建設などで列強に対し多額の債務を負い、以後、経済的に列強に従属する事になる。

オスマン帝国 縮小への道のり

16世紀まで拡大を続けたオスマン帝国だったが、17世紀後半からは次々と領土の縮小を迫られる事となった。

カルロヴィッツ条約 1699年
この条約でハンガリーを失ったオスマン帝国は、以後ヨーロッパ諸国に対し協調政策をとる。
クチュク・カイナルジ条約 1744年
第1次露土戦争デロシアがオスマン帝国に勝利。
ロシアは黒海の自由航行権を獲得し、オスマン帝国は属国のクリム・ハン国を放棄した。
アドリアノープル条約 1829年
ギリシア独立を援助したロシアがオスマン帝国に勝利。
ボスポラス、ダーダネルス両海峡の自由航行権などを認めさせた。
エジプトの半独立 1841年
エジプト・トルコ戦争の結果、ムハンマド・アリーによるエジプト総督位の世襲が認められ、エジプトはオスマン帝国内の反独立国となった。
この後、エジプトはスエズ運河建設にかかった多額の債務によって、列強に従属する。

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