第一次大戦後のインドと中東

第一次大戦後のインドと中東

第一次世界大戦後の各植民地では、民族主義が高まっていき、国民国家建設の為の独立運動が各地で行われるようになった。
トルコは近代化を果たし、インドでは非暴力での反英独立運動が起こる。
中東では、イギリスの矛盾外交によって、ユダヤ人によるユダヤ建国運動と、アラブ人によるアラブ国家建設が同時に起こり、パレスチナ問題へと繋がって行く。

トルコの近代化

第一次世界大戦後が終結すると、世界各地で国民国家の建設を目指す運動が盛んになり、民族自決の原則を踏みにじるヴェルサイユ体制への抵抗が始まった。
トルコでは、大戦でのオスマン帝国の敗北により、連合国の治外法権などを認めたセーヴル条約(1920年)が締結され、完全な植民地に陥ろうとしていた。

アンカラを首都に新政府が樹立

この条約に反対したケマル・パシャは反乱を起こし、国内の民族主義勢力を結集してアンカラに新政府を樹立する。
1922年にはイギリスの後押しで小アジアに侵入していたギリシア軍を撃退し、翌年には連合国と新たにローザンヌ条約を締結して、治外法権などを撤廃させた。
さらに、同年にはスルタン(イスラム教国の君主)を追放してトルコ共和国を建国する。
カリフ制を廃した政教分離や法律改革、婦人のベール着用禁止などの女性解放など、西欧を模範とした近代国家の建設を進めた。

インドの非暴力反英独立運動

イギリスのインドに対する矛盾外交

第一次世界大戦中、インドに自治権を約束したイギリスは1919年にインド統治法を制定したが、これは形だけの自治を認めるものであった。
さらに、同年には令状なしの逮捕・投獄を認めたローラット法を制定し、治安維持の強化を図っている。
この時、インドでは反対運動が起こっているが、イギリスがデモ隊に対して発砲、多数の死傷者を出す事態に発展している。(アムリットサル虐殺事件)

半独立を勝ち取った、新インド統治法

こういったイギリスの動きに対し、国民会議派の指導者ガンディーは非暴力・不服従の抵抗運動「サティヤーグラハ」を展開する。
その後、国民会議派の主導権が左派のネルーらに移ると、1929年には単なる自治ではなく、完全な独立「プルーナ・スワラージ」を要求する。
対するイギリスは、妥協点を見出す為に、英印円卓会議を開催する。
1935年には各州ごとにある程度の自治を認めた新インド統治法を制定した。

イギリスの三枚舌外交

イギリスは第一次世界大戦中、中東地域を支配するオスマン帝国に対抗する為、ユダヤ人とアラブ人の協力を求めていた。
そこでイギリスは、ユダヤ人とアラブ人の双方に対して、パレスチナでの国家建設を認める矛盾外交を展開していた。
さらに、ロシアやフランスなどの列強に対しては、オスマン帝国の領土を分割統治する密約まで結んでいたのだ。
この、イギリスの矛盾した、いわゆる「三枚舌外交」によって、現在まで続く、パレスチナ問題の発端となっている。

サイクス・ピコ協定
ロシア・フランスに対して、オスマン帝国の領土分割を約束した協定。
バルフォア宣言
ユダヤ人に対して、パレスチナでの建国支援を約束した宣言。
戦後、イギリスの委任統治領となったパレスチナにユダヤ人が入植し始め、後にイスラエルが建国される。
パレスチナの地を巡るアラブ人とユダヤ人の対立は、現在でも続いている。
フサイン・マクマホン協定
アラブ人に対して、オスマン帝国の旧領地にアラブ国家独立を約束した協定。
戦後、イギリスはこの協定を無視し、旧領地を英仏の委任統治領として分割した。
しかし、アラブ人の反発が強まり、徐々に自治、独立を認める事となった。

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