墾田永年私財法

墾田永年私財法

土地の私有を認めた法律

土地の私有が認められないと新田開発も進まなかった。
朝廷は耕地の拡大政策を段階的に出し、墾田永年私財法によって土地の私有が認められた事で開墾が進むようになり、初期荘園が誕生した。
日本史の転換点となった墾田永年私財法が発布されるまでの流れをまとめる。

問題だらけだった土地制度

豪族から奪った田地を農民に“貸す”だけ

律令制の大きな目的として「富と権力の国家への集中」があった。
豪族が持っていた田地を国有化し、口分田として農民に分配。
そして、質の揃った農民から、良質な兵士を微発しようと考えたのである。

耕地開発が思うように進まず…

口分田を増やすため、7世紀から8世紀初頭にかけて国家による大規模な耕地開発が行われた。
それによって日本の人口は増加したが、やがて国家による耕地開発は限界を迎え、口分田不足に悩まされるようになる。
国司や郡司は農業を振興させる勧農政策を行ったが、あまり効果はなかった。

耕した土地は子孫に残せず、国家に奪われる

口分田不足を招いたのは、日本の律令における農地の新開発を促す仕組みが弱かったからだ。
この頃、農民の浮浪や逃亡で荒廃した田地が増えていたが、それを再開発した際に耕作権を認める規定はあったが、亡くなったら口分田と同じように収公された(取り上げられた)。
せっかく土地を開墾しても、その土地が子孫のものにならなかったので、墾田(自分で新しく開墾した耕地)はなかなか増えなかった。

中国では開墾した土地を子孫に残せた

日本の令は唐の令を参考にしたものだったが、唐の令には墾田の私有を認める規定があった。
唐では成年男子が100畝(約6ヘクタール)までの土地を持てたが、国から口分田として支給されたのは半分ほどだった。
残りは自分で開墾した土地を永業田として組み入れることができ、子孫にも伝えることができた。

豪族に土地を持たせたくなかった朝廷

また、唐には官人の位階に応じて農地の私有を認める制度もあった。
そのため、官人は私財を投じて農地を拡げ、それを子孫に残した。
これに対し、日本の令で永代世襲できたのは、功績ある官人に与えられた大功田に限られていた。
日本が唐の永業田の仕組みを導入しなかったのは、豪族に私有地を持たせたくなかったからであった。

百万町歩開墾計画

無理のある開墾計画

722年(養老6年)、人口増加による口分田不足を補うため、長屋王政権は百万町歩開墾計画を発布した。
町歩とは、町を面積の単位として使った場合を指す。
良田100万町を開墾するため、農民に食料と農具を支給して10日間の開墾作業を行わせることを、国司と郡司に命じた。
荒地を開墾し、3000石以上の収穫をあげた者には勲位六階、1000石以上は庸を終身免除するなどの報償を定めた。

100万町という数字は不可能

しかし、100万町というのは、平安時代初期の日本全土の耕地面積である96万町歩よりも大きかった(『倭名類聚抄』より)。
そのため、この計画は現実的とはいえないモノだった。
また、その開墾計画の対象が陸奥国のみだったという説もある。

なぜ開墾が進まなかったのか

畠(畑)は奨励せず、大変な水田だけ奨励

開墾が進まなかった背景には、日本の班田収授の対象が水田に限られていた点がある。
水田を造るには土地を水平にならし、水を引く必要があった。
畠(「畑」の字は元々は焼き畑に使われていた)よりも手間がかかり、立地は限られている。
これに対し、中国でいう「田」は水田だけでなく畠も指していた。
日本の班田収授は中国の制度を参考にしたものだが、土地事情に違いがあるので、稲作中心の日本で適用するのは無理があったとみられる。

3代まで私有を認める三世一身法

食糧を安定させたかった朝廷

百万町歩開墾計画はすぐに立ち消えになったが、当時の朝廷が口分田不足に危機意識を持っていたのは確かだった。
口分田の不足はつまり食糧不足の危機を招くからだ。
開墾計画を発布した翌年の723年(養老7年)、朝廷は新たに三世一身法を発布した。

ほんの少し良くなった土地制度

この法令では、新しく池や用水路を設けて開墾した者は、その地を3世(本人→子→孫→曾孫)まで私有できることが定められた。
また、旧来の灌漑施設を修理して開墾した者は、当人1代に限り私有が認められた。
期限つきではあるが、律令に定められた口分田の範囲を超えての私有が可能になった。

制定直後は開墾が進んだ

三世一身法は当時の社会としてはそれなりに肯定的にとらえられ、各地で郡司・官人・寺院・有力農民による開墾が行われた。
その具体的な例は、奈良時代を代表する僧・行基の活動から見ることができる。

行基の開拓は三世一身法が契機

行基の灌漑用水源

河内国に生まれた行基は仏教の教えを広めるだけでなく、道路整備などの社会事業も行った。
行基の活動拠点になったのが畿内各地にあった「院」で、三世一身法の発布後は「池」や「田」がつく名前の院が造られている。
これは、行基の社会事業に用水池の修築と農地開発が加わった事を覗わせている。
狭山池や久米田池、鶴田池などは、近年に至るまで千数百年も灌漑用水の水源として用いられた。

田地開発と共に仏教も布教

行基は全国各地の寺院を開いた開祖として崇められていることが多く、その中には田地の開発と結びつけられた伝承もある。
例えば、神奈川県逗子市にある法勝寺の縁起には、行基が大蛇を帰伏させたという話がある。
これに感服した長庵善応という人物はこの地に寺を建て、観音菩薩像を安置し、大蛇を諏訪大明神として祀ったという。

豊富な水資源が世の中を豊かに

この地区にある池子遺跡群の発掘調査によると、集落の初見は8世紀半ばで、豊富な水資源を利用して田地を開発したことが判明している。
行基がこの地に赴いたかどうかは不明だが、三世一身法を契機とした開発が、仏教の浸透と共に行われた事を示唆している。

墾田永年私財法が発布

期限が迫った土地が手放され荒地に

三世一身法で土地を開墾する者が増えたが、3代後には土地を国に返さなければならなかったので、土地開墾の意欲は次第に乏しくなっていった。
また、土地を返す時期が迫ると手入れがされなくなり、せっかく開墾した土地が荒れ地に逆戻りした。
そこで743年(天平15年)、橘諸兄政権下で墾田の永年私財化を認め墾田永年私財法が発布された。

許可さえ得れば開墾可能

耕地を開墾しようとする者は、まずは国司に申請する必要があった。
その場所が公衆の妨げになる場合は、開墾が認められなかった。
また、許可を受けた者が3年経っても開墾しない場合は、他の者の開墾を許した。
律令制下の田地は口分田として分配された公田と、私有地の墾田の2本立てになった。
ただし、墾田の私有には中央政府(太政官民部省)の認可が必要で、公田と同じように租が課された。

位階に応じた開墾制限

田地は誰でも無制限に開墾できるわけではなく、位階によって制限が定められていた。
一位の官人には500町、二位は400町、三位は300町、四位は200町、五位は100町、六位から八位は50町、初位から庶人は10町、郡司は10〜30町(大領・少領が30町、主政・主帳が10町)となっていた。
なお、国司が開墾した田地は任期が終わると収広された。

国司の豪族化を懸念した朝廷

国司にだけ極端な規制が付いているのは、国司が土地を持ちすぎて豪族化するのを避けたかったのだろう。
もともと朝廷は豪族に私有地を持たせたくなかったから墾田の永年化を認めたくなかった訳だが、あくまで朝廷を脅かす存在が出て来なければ永年化しても問題はなかったのだ。

位階による面積制限も撤廃

749年(天平勝宝元年)に孝謙天皇(後の称徳天皇)が即位すると、寺院にも墾田許可令が出た。
大仏が造立された東大寺には4000町、元興寺には2000町、大安寺や薬師寺、興福寺、諸国の国分寺には1000町という大きな枠が与えられた。
道鏡が称徳天皇の後見で太政大臣禅師となった765年(天平神護元年)、墾田の私有を禁じる太政官符が発布されたが、一度動き出した開墾の流れを止めることはできなかった。
道鏡が失脚して称徳天皇が崩御すると、772年(宝亀3年)に禁令が撤回される。
このとき、位階による墾田の所有面積制限も撤廃された。

「初期荘園」完成

貴族や大寺院が力を付ける切っ掛けに

墾田永年私財法の制定は、従来耕作されていなかった土地を水田化するという開墾行為を政府の管理下に置き、政府の土地支配を強めるという狙いもあった。
だが実際は、資本力がある貴族や大寺院が私有地を拡げる切っ掛けになった。

荘園の内部は急速に発展

貴族や大寺院は私財を投入し、灌漑施設を造ったり、原野を開墾したりした。
その際、国司や郡司の協力を得て多くの農民や浮浪者を動員。
開墾した土地には経営拠点となる荘所や収穫物を納める倉庫群が置かれたが、これが荘園の源流となった。
墾田永年私財法発布によって作られた荘園を初期荘園といい、荘所には耕作する農民に貸与する農具や種籾、農料(人夫に支給する労賃と食料)などが納められた。

かつての“クニ”のように力を付けていく

初期荘園には、中世の荘園のような支配領域としての境界が存在しなかった。
荘園の立ち上げや経営には、その土地の郡司や豪族が深く関わった。
基本的には荘園に専属する農民を持たず、近隣の農民の出作で労働力をまかなった。
収穫の2〜3割が地子として納められ、それが荘園の収益になった。

皇室も荘園で財力を確保

また、皇室の財源を確保するため、勅旨田という初期荘園が設けられることもあった。
勅旨田は8世紀後 から存在していたが、多く設置されたのは9世紀前半の淳和仁明天皇の時代である。
嵯峨上皇の勅旨田は1800町、淳和天皇は2200町、仁明天皇は1100町にも上ったと推定される。
勅旨田は賜田として、皇族や妃、近臣に与えられることもあった。
当時は宮廷儀式が確立されるなど、王朝文化が花開いた時期だったが、その下支えになったとされるのが勅旨田からの収入だった。

災害疫病に備え、荘園も発展していった

9世紀に入ると火山噴火や地震が相次いで発生し、疫病も流行って社会不安が増大した。
気候も9世紀前半までは乾燥気味で安定していたが、後半になると湿潤に転じて不安定化し、洪水や旱魃が交互に起こった。
10世紀に入ると気候は再び乾燥化したが、こうした相次ぐ気候変動は、農村にも大きな影響を及ぼした。


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