長崎チャンポン

長崎チャンポン

長崎チャンポンと皿うどんは、深い関わりのあった中国の影響を受けて長崎が生み出した日中混合の庶民の味として、名物のひとつとなった。
チャンポンの語源には諸説ある。

  1. 中国、福建省の方言で簡単な御飯の意味の、喰飯(シャンポン)がなまったとする説
  2. ポルトガル語の「チャンポン(混ぜる・混合するの意味)」がなまったとする説
  3. 当時の中国人の呼び方である「チャン」と日本人の「ポン」を取ってチャン+ポンと名付けたとする説

長崎の歴史と風土が作り上げたチャンポン

長崎チャンポンのルーツ福建省の省都福州市に属す福清市には、「メンミエン」と呼ばれる材料・味・見かけ・作り方が似る麺料理があり、現在も広く食べられている。
福州語では「モウンマイ」といい、先に鍋で具を炒めてからスープと麺を加えて煮る。
日本の長崎チャンポンは、中国では「五目麺」と呼ばれる。

貧しい留学生の為に考案、安くて栄養満点

長崎チャンポンは中国福建省の福建料理をベースとしている。
明治中期、長崎市に現存する中華料理店「四海樓」の初代店主陳平順が、当時日本に訪れていた大勢の中国人(清国人)留学生に、安くて栄養価の高い食事を食べさせる為にチャンポンを生み出したのだ。
ただし異説もあり、明治初年には既に長崎人の本吉某が長崎市丸山で、支那うどんをチャンポンの名で売り出していたとも。

四海樓のチャンポン

四海樓のチャンポン

勝海舟も食べたチャンポン

1907年(明治40年)に出版された『長崎縣紀要』には「チヤポン」の表記で濃厚な味ながら支那留学生や書生の好物で、すでに市内十数か所で提供されていたことが紹介されている。
また「勝海舟が丸山でチャンポンを食べとても喜んだ」とも語り継がれている。

チャンポンの製法

豚肉、ネギなどの野菜、蒲鉾など魚肉生産品、十数種の具材をラードで炒め、豚骨と鶏がらで取ったスープで味を調える。
そこにチャンポン用の麺を入れて煮立る(他の中華麺類との大きな違い)。
公正競争規約施行規則別表では、長崎チャンポンは「長崎県内で製造され」また「唐あく」と呼ばれる長崎独特のかん水で製麺したものと規定する。
そのため、長崎のチャンポン麺は他県で製造されたものと成分が異なり、独特の風味がある。

チャンポンが与えた影響

長崎チャンポンは全国的に知られたご当地料理であり、太い麺と具材の多さが特徴であり、麺は切刃番手16番が使われる傾向にある。
長崎チャンポンに影響されたと思われる麺料理が日本全国に存在する。
特に九州各地のご当地ちゃんぽんは、スープや具材など長崎ちゃんぽんの特徴を強く引き継いでいる。
さらに九州各地の濃厚な豚骨ラーメンも、長崎チャンポンの影響を大なり小なり受けている。

長崎皿うどんの歴史と由来

日本と中国合作の庶民の味「皿うどん」

長崎皿うどんの材料は、チャンポンと同じ。
やや甘めのスープに片栗粉でとろみを付けて麺の上にかけたものだ。
麺は、油揚げした細麺と、ちゃんぽん麺を炒めて作る太麺の2種類があり、最初は太麺だったと言われている。

独自の工夫を重ねてチャンポンの変化版

鎖国令が解かれた江戸時代後期、それまで唐人屋敷に閉じこめられていた中国人たちは市中へ出て、庶民相手に中国一品料理の小さな店を出すようになった。
皿うどんは、そんな異国の味と伝統的な日本料理に、新鮮で豊富な海の幸に恵まれた長崎が出会って発展した、いわば日本と中国の合作料理といえる。
明治の頃、日本人のうどん屋で「かけ」や「もり」が十銭であったのに比べ、中国人の店では野菜や魚介類をふんだんに盛り込んで、同じ十銭くらいだったと伝えられるので、人気を呼んだのも不思議ではない。
特にモヤシや豚肉の混じった風味は、当時の若い人たちばかりでなく、多くの人に好まれた。

また、皿うどんは作り方も複雑なので、ちゃんぽんに比べて少し値段も張り、やや高級とされていた。
その後、日本人が経営し始めたが、店内は、ほとんどが畳敷き。
十畳か二十畳の部屋に赤く丸い飯台を5〜10台置いてあるのが一般的だった。
1卓を4、5人で陣取り、大皿に山ほど盛られた皿うどんが運ばれると、その食欲をそそられる味と香りで、客はまたたく間に平らげたと言われる。


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