ユーゴスラビア内戦

ユーゴスラビア内戦

1991年から2001年のおよそ10年間、民族や宗教が複雑に入り組んだユーゴスラビアでは、連邦の解体に伴い、各共和国で内戦や紛争が起きた。
特に、ユーゴスラビア圏において最大勢力を誇っていたセルビア人たちと、諸民族たちとの紛争が頻発した。

カリスマ指導者の死が、国家を分断させる

国・民族・宗教が複雑に入り組んだ連邦国家

もともとユーゴスラビアとは「南スラブ人の国家」という意味である。
このユーゴスラビア連邦は複雑なモザイク国家としての面を持っており「7つの国と国境を接し、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字がある1つの連邦国家」などといわれた。
この複雑なモザイク国家を束ねていたのは、第二次世界大戦でパルチザン部隊を率いてナチス・ドイツからの自力解放を勝ち取ったティトー大統領のカリスマ性だった。
そのため、1980年にティトーが死去すると、その後に採られた集団指導体制では各民族の利害関係が表面化し、経済の低迷もあって連邦への求心力は急速に弱まっていった。

悲惨な5つの紛争が、10年も続いた

そして、東欧諸国の民主化やベルリンの壁崩壊をきっかけに、各共和国は民族自決を掲げて次々と独立し、連邦は解体された。
この過程の91年から2001年までに、ユーゴスラビアでは、多くの紛争が起こっている。
スロベニア共和国軍と連邦軍による「十日間戦争」、クロアチア独立後に起きた「クロアチア内戦」、ボスニア・ヘルツェゴビナ独立を巡る「ボスニア内戦」、セルビア共和国コソボ自治州の独立を巡る「コソボ紛争」、マケドニア内での権利拡大を求めるアルバニア人と政府軍による「マケドニア紛争」の5つである。
これらの紛争を総称して、ユーゴスラビア内戦といわれる。

セルビア人たちの強い民族意識

マケドニア紛争を除き、ユーゴスラビア紛争の基本的な構図は、いずれも連邦内の最大勢力であるセルビア人と、独立を志向するそれ以外の民族の対立であった。
もともとセルビアは、オーストリアやオスマン帝国に対抗すべく、19世紀には、セルビア人主導で南スラブ系諸民族の統一を目指す大セルビア主義を掲げていた。
しかし、ユーゴスラビア連邦では、クロアチア人のティトーが各共和国の対等の主権を重視した為、セルビア人の民族意識は抑制されていた。

民族浄化

そのセルビア人たちの民族意識の噴出によって起きた一連の紛争だが、中でも民族が最も複雑に入り混じったボスニア・ヘルツェゴビナでは、イスラム教徒のムスリム人(ボシュニャク人)、カトリックのクロアチア人、東方正教徒のセルビア人勢力が三つ巴の内戦を展開した。
「民族浄化」と呼ばれる虐殺も起きた事で、20万人もの死者を出す悲劇となった。

ユーゴスラビア内戦の各紛争詳細

スロベニア十日間戦争(1991年)
スロベニア共和国軍 VS 連邦軍
1991年6月25日、クロアチアと共に独立を宣言したスロベニア軍と連邦軍が衝突したが、周辺各国の非難を受け連邦軍が撤退。
クロアチア内戦(1991〜95年)
セルビア人勢力 VS クロアチア共和国軍
独立後の1991年9月から、国内のセルビア人勢力とクロアチア政府軍が衝突。
95年に政府軍がセルビア人勢力を追放して戦闘は終了した。
ボスニア内戦(1992〜95年)
ムスリム人・クロアチア人 VS セルビア人勢力
独立をめぐる対立から、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人による三つ巴の内戦に発展。
95年にNATOなどの介入で和平が成立した。
コソボ紛争(1998〜99年)
アルバニア系武装組織 VS セルビア治安部隊
アルバニア人が多数を占めるコソボ自治州の独立運動が激化。
99年にはNATO軍がセルビア空爆を行い、コソボは国連の暫定統治下に置かれた。
2008年には独立を宣言。
マケドニア紛争(2001年)
1991年の独立後、国内のアルバニア人勢力が権利拡大を要求して蜂起。
EUやNATOの介入で停戦した。

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