日本の敗戦と占領

ポツダム宣言受託

「大東亜共栄圏」の建設を掲げた全体主義の日本が、民主主義の防衛を旗印とした連合国の前に敗れ去った。
ポツダム宣言受託後、日本は敗戦国としての道を歩み始める

アメリカの経済制裁で日本は全面戦争へ

第二次世界大戦がはじまった1939年当初、日本は大戦への不介入方針を取っていた。
しかし、ドイツがポーランドやフランスなどの近隣諸侯に対し、破竹の勢いで勝利を重ねると、40年9月に北部仏印(フランス領インドシナ)への進駐を開始し、日独伊三国同盟を締結した。
大戦への介入姿勢を強めていたアメリカは警戒感を示し、日本の南部仏印進駐を機に、対日石油輸出の全面禁止など、強い経済制裁を発動する。

東条英機内閣発足で戦争に踏み切る

対する日本では、41年10月に武力での経済包囲網突破を主張する東条英機内閣が発足。
12月、イギリス領マレーのコタバル上陸真珠湾攻撃を敢行し、枢軸側として米英との全面戦争に突入した。

和平仲介役として期待したソ連が参戦

日本軍は、開戦半年で東南アジアのほぼ全域を占領したが、物量に勝るアメリカが反攻を開始すると、42年6月のミッドウェー海戦で大敗する。
以後も後退を余儀なくされた日本は、44年6月にマリアナ沖海戦で敗北し、太平洋の制空権・制海権を失う。
同年11月からは、サイパン島などから飛び立った爆撃機による空襲が始まり、翌45年3月には東京大空襲、4月には米軍が沖縄本島上陸を開始する。

原爆投下を受け、敗戦を受け入れた日本

5月にドイツが降伏すると、7月にはポツダム宣言が発せられたが、ヤルタ秘密協定に気づいていなかった日本は、「中立国」だと考えていたソ連の仲介による和平に期待しており、宣言を黙殺する。
一方、ソ連の介入前に日本を降伏させたいアメリカは、8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾を投下した。
また、8日には和平介入を期待していたソ連が対日参戦しており、ついに14日夜、日本政府は連合国にポツダム宣言の受託を通告する。
6年に渡る第二次世界大戦が終結した。

玉音放送で「終戦」を報せる

敗戦を信じる事が出来ない人々も

「けふ正午に重大放送 國民必ず厳肅に聽取せよ」の朝日新聞号外は8月15日午前中に交付された。
この玉音放送を伝える緊急の特報が戦後の号外第一号であった。
この当時、まだ日本国内には敗戦を信じる事が出来ない人も多くいたため、天皇による敗戦声名が必要だったのだ。

新聞社も鈍足だった

なお、このとき朝日新聞社は8月12日にはポツダム宣言を受託するとの情報を得ていたが、すぐさまに号外は出さなかったという。

アメリカによる日本占領

アメリカを中心とした、日本の非軍事化・民主化を目指し、サンフランシスコ平和条約発効までの、約7年間に渡る日本占領が始まった。

GHQと幣原内閣が進めた占領初期の重要改革

ポツダム宣言受託から約半月後の1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上で降伏文書への調印が行われ、正式に日本は降伏した。
10月には日本を統治下に置く連合国軍最高司令官総司令部(GHQ-SCAP)が正式に発足し、最高司令官には、米太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサーが就任する。
連合国といっても、米・英・仏・ソ連によって分割占領されたドイツとは異なり、実態は、原爆投下などで日本の降伏を引き出したアメリカによる、単独占領であった。

GHQによる間接統治

また、占領軍によって直接統治されたドイツとは異なり、日本の場合はGHQが立案した改革を既存の日本政府が法令の形にして実施する、あるいはポツダム緊急勅令に基づいて命令する、という間接統治の手法が取られた。
その日本側の受け入れ窓口となったのは、国内外に展開していた日本軍の武装解除を成し遂げた東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣を継いで、10月9日発足した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣であった。

非軍事化・民主化を目指す

同月11日、幣原はマッカーサーに首相就任の挨拶をした際、口頭で日本の非軍事化・民主化を目指す五大改革指令を受けている。
この五大改革の実行を皮切りに、翌46年4月に退陣するまで、幣原内閣は天皇の「人間宣言」や、軍人・戦前戦中の政治指導者などを公職から排除する公職追放、極東国際軍事裁判の設置、日本国憲法草案の閣議決定など、占領初期の重要改革を実施していくのであった。

東京裁判

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、それまでは罪とされていなかった「平和に対する罪」により、国家の指導的立場にあった個人の責任が問われた。
これにより、28人のA級戦犯容疑者が裁かれた。

公平さを欠いた戦勝国による裁判

一切の戦争犯罪者に厳罰を加える」というポツダム宣言の記述に基づき、1945年9月から46年11月までに100人以上のA級戦犯容疑者が逮捕された。
この「A級戦犯」とは、捕虜虐待や禁止兵器の使用などの「通常の戦争犯罪」とは異なり、戦争の計画・開始・遂行に関わった「平和に対する罪」に問われた者である。
その後、マッカーサーが発した条例に基づき、46年5月3日、逮捕された容疑者のうち起訴された28人を被告として極東国際軍事裁判「東京裁判」が開かれた。

裁判官と検事は全て戦勝国から

裁判は、オーストラリアのウェッブ裁判長以下11人の裁判官、アメリカのキーナンを首席とする検事団、鵜沢総明(うざわふさあき)らの弁護団によって進められた。
ただし、裁判官にいつでも弁護人を忌避する権限が与えらえていた他、弁護側の主張が理由もなく退けられるなど、公平な心理とは言い難かった
結局、48年11月に出された判決はほぼ検事側の主張に沿った内容で、途中で死亡した2人などを除く25人の被告全員が有罪とされた。

歴史上初の、人道に対する罪

これが、ドイツのニュルンベルク裁判と並んで、戦争指導者個人に刑事責任を課した、歴史上初の事例である。
以後、「人道に対する罪」と共に、平和に対する罪は、国際法上の新たな戦争犯罪と規定される事となった。

国際法学者パルの訴え

この判決に対し、裁判官の中で唯一の国際法学者であったインドのパルは、膨大な反対意見書を提出した。
平和に対する罪という事後法で敗者を裁く事の非理や、残虐行為の証拠が不十分である点などを指摘し、被告全員の無罪を主張している。

B・C級戦犯らの判決

なお、通常の戦争犯罪人であるB・C級戦犯は、関係各国が設けた軍事裁判で裁かれ、起訴された5000人中、984人が死刑、475人が終身刑の判決を受けた。
しかし、こちらも証拠不十分のまま、正確さを欠く事実認定で有罪判決を受けた例が少なくなかったといわれる。

日本国憲法制定

戦後日本の方向性を定める自由主義的憲法が完成する。
平和主義を特徴とする現行の日本国憲法は、東西対立の動きを踏まえたマッカーサーの現実的な思惑を反映したものだった。

マッカーサーの思惑により9日間で作成されたGHQ草案

占領初期の最重要課題だったのは、憲法の自由主義的改革だ。
マッカーサーの要請を受けた幣原喜重郎首相は、さっそく松本烝治(まつもとじょうじ)国務相を長とする憲法問題調査委員会を設置し、1946年初頭には同委員会の改正試案が固まりつつあった。
しかし、毎日新聞のスクープでこの試案が天皇大権を認めるなど保守的な内容である事を知ったマッカーサーは、GHQ民政局に憲法草案の作成を指示
民間の憲法研究会が作成した草案などを参考にしながら、国民主権と象徴天皇制戦争の放棄と柱としたGHQ草案、わずか9日間(密室の9日間)で作成された。
日本国憲法は、この草案を土台としたものだ。

ソ連を意識して、憲法草案が作られた

日本の赤化を防ぐ為に天皇制を残す

マッカーサーが草案作成を急がせたのは、2月下旬に極東委員会が活動を開始する為だった。
以後は自身の全権の下で憲法改正を進める事が出来なくなり、ソ連などが求める天皇制廃止に配慮せざるを得なくなる。
スムーズな占領政策や、日本の共産化を防ぐ為に天皇制が必要だと考えていたマッカーサーは、そうした事態を避けたかったのだ。

ソ連を納得させる為の平和憲法

ただし、天皇制存続の既成事実化だけではソ連などを納得させる事は難しい。
そこでマッカーサーは、説得材料として戦争の放棄を憲法改正案に盛り込ませたのだといわれている。
こうしたマッカーサーの思惑が強く反映された憲法改正案が1946年10月に国会で可決され、平和主義国民主権基本的人権の尊重を柱とする日本国憲法は成立したのであった。

日本国憲法公布

「官報」によって号外として告知

「平和主義」「基本的人権の尊重」「国民主義」の3本柱を特色とした日本国憲法は、1946年11月3日に公布された。
その時、新憲法は「官報」によって号外の形で告知された。
当時の日本まだ戦後間もなくの物資不足を克服できておらず、新聞社も用紙の関係から号外を殆ど発行できなかった。


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