中ソ国境紛争

中ソ国境紛争 中ソの蜜月関係が崩壊

1969年、ソ連と中国、社会主義路線の対立が武力衝突にまで発展する。
「中ソ一辺倒」を唱えた中国と、それに応えて援助を惜しまなかったソ連の蜜月関係は、20年の時を経て最悪期を迎えた。
両者の対決姿勢が鮮明になった事により、アメリカ・中国共に外交姿勢を転換、国際情勢の敵対関係が、180度変わる事になる。
>> 中ソ対立に至る年表

中ソ対立が国際政治環境に大回転をもたらす

1969年3月、中ソ国境のウスリー川に浮かぶダマンスキー島(珍宝島(ちんほうとう))で、両国軍の大規模な武力衝突が発生した。
同年8月には新疆ウイグル自治区付近の国境地帯でも、より大規模な衝突が起きた。
長い間蜜月関係を保ち続けてきた中ソの対立が、ついに紛争へと発展した瞬間である。

ソ連の外交姿勢の変化に、中ソの関係が悪化

この対立の発端は、フルシチョフによるスターリン批判だった。
スターリンの個人崇拝に対する批判が、自身の絶対化への批判に繋がりかねないと考えた毛沢東は反発を強める。
対するフルシチョフは、中国の大躍進政策を批判した他、チベット問題に端を発した中印国境紛争ではインドの立場を支持する。
次いで、中国への各開発援助の破棄や派遣技術者の引き揚げを行った。
そして、60年に中国が共産党機関紙「紅旗(こうき)」で、ソ連の平和共存路線を「修正主義」と断じた事で、両者の対立が公になると共に、以後はエスカレートの一途をたどる事となった。

中国の外交関係が複雑化し、敵と味方が入れ替わる

中ソ対立の激化は冷戦下の東西両陣営に様々な影響を与えた
特に、中国がアメリカよりソ連を敵視する「ソ連主敵論」を唱えるようになると、ニクソン訪中で米中が接近する国政政治上での東西国際関係が180度回転する事になった。
これにより、中国とベトナムの関係が断絶し、中越戦争にまで発展するなど、二次的・三次的に影響が拡大していった。

中国とソ連の対立年表

西暦 出来事
1950年 朝鮮戦争
1956年
スターリン批判
ソ連が平和共存路線へ転換した事を受け、アメリカとの対決を核心とする中国との確執が生まれる。
1959年
チベット動乱勃発
ソ連、中国への核開発技術援助を破棄
中印国境紛争
1959年、チベットでの反中国運動に際してダライ・ラマ14世がインドに亡命。
中国はダライ・ラマ側を支持するインドと対立し、両国の東西国境付近で軍事衝突に発展。
62年にも大規模な衝突が起きる。
この紛争では、ソ連はインドを支持している。
1960年 ソ連、中国へ派遣していた技術者を一斉に引き揚げる
1962年
キューバ危機
中国、ソ連がアメリカへ譲歩し、キューバへの核ミサイル基地の設置を断念した事を批判する。
1963年
中ソ両共産党の公開討論を開始
両国とも、互いを「修正主義」「教条主義」と批判する。
1968年
ソ連、チェコスロバキアの「プラハの春」に軍事介入
中国がソ連の軍事行動に対し「社会帝国主義」と批判。
ソ連は中国の文化大革命を「極左日和見主義」と批判。
1969年
中ソ国境紛争
1960年以降、国境地帯での小競り合いが続いたが、69年3月、ウスリー川の川中島であるダマンスキー島で大規模な軍事衝突が発生。
同年8月には、新疆ウイグル自治区の裕民県でも衝突が起き、ソ連が核使用に言及するなど、緊張が高まった。
1979年
中越戦争
ベトナムの親ソ姿勢や、カンボジアで親中派のポル・ポト政権を崩壊させた事に対する報復として、中国が軍事侵攻を開始。
しかし、近代戦に長けたベトナム軍により大きな被害を受け、撤退した。

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