イスラエル建国と中東戦争

第一次中東戦争 ユダヤとアラブの戦い 

イスラエル建国と同時に中東戦争が勃発【1948〜49年】
現在に続くパレスチナ問題は、ヨーロッパの民族主義的排他性や大国の都合によって拡大・継続されてきた。

フランス革命にまで遡るパレスチナ問題の遠因

イスラエル建国と中東戦争の遠因は、フランス革命で芽生えた民族主義だといえる。
革命後のナポレオン戦争では、「国の為に死ぬことも厭わない」民族主義のフランス軍が、傭兵中心の各国軍を蹴散らすと同時に、民族主義をヨーロッパ各地に広めた。

民族主義が広まり、ユダヤ人の排斥が始まる

ナポレオン戦争で、複数の民族で構成される国より、民族が統一された国の方が、連帯感が強いという事が証明された。
その結果、民族主義的排他性を強めたヨーロッパのキリスト教社会はユダヤ人への迫害を強めていく。
対する在欧ユダヤ人は、1894年にフランスで起きたユダヤ系将校のスパイ冤罪事件「ドレフュス事件」を機に、ヨーロッパで生きる事を諦めるようになる。
そして、「シオンの地」、すなわち、オスマン帝国統治下のパレスチナにユダヤ人国家を建設するというシオニズム運動を掲げ、入植を始めた。

イギリスの外交戦略

第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは戦争支援やオスマン帝国の後方かく乱を求め、ユダヤ、アラブ双方に対して「二枚舌外交」を展開する。
最終的にはサイクス・ピコ協定に基づいてパレスチナを委任統治下に置いたが、シオニストたちはバルフォア宣言(イギリス政府のシオニズム支持表明)を盾に、パレスチナ人から土地を購入するという手段で入植を拡大していった。

事前に戦争に備えた入植者たち

ユダヤ人らの戦略的行動

当初、この動きは緩やかなものだったが、ユダヤ人の排斥を掲げるナチスの台頭を機に、ドイツからのユダヤ人入植者が急増すると、アラブ人との軋轢も増していく。
そこで入植ユダヤ人たちはハガナーと呼ばれる自衛組織を強化していくが、第二次世界大戦が始まると、ハガナーの隊員たちは連合国側の兵力として戦いに参加した。
これは将来のアラブとの衝突を見据えて実戦での経験を積むためだったといわれ、実際に、第一次中東戦争の司令官ダヤン将軍もシリア戦線で戦っている。

中東戦争でイスラエルが勝利

なお、ハガナーの分派であるイルグンなどは、反英テロ組織となってゲリラ闘争を繰り返すようになり、イギリスにパレスチナの委任統治を断念させる原因となった。
そして、国連によるパレスチナ分割決議を経た1948年5月にイギリス軍がパレスチナから撤退すると、直後にイスラエルが建国を宣言。
分割決議に反対するアラブ諸国との間で中東戦争が勃発し、戦いを優位に進めたイスラエルが、パレスチナ分割案を大きく上回る土地を占領したのであった。


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