ソ連のアフガニスタン侵攻

ソ連のアフガニスタン侵攻

アフガン情勢の泥沼化がソ連崩壊の遠因となった【1979年】
イラン革命によるイスラム主義の台頭を懸念したソ連が、不安定化するアフガニスタン情勢に武力介入した。
このソ連の行動を非難した西側諸国は、モスクワオリンピックをボイコットし、軍縮交渉・デタントも停滞、東西は再び緊張状態に戻ってしまう。
10年後、ソ連軍はアフガンから撤退するも、この長い戦争が、ソ連解体の遠因となるのである。

イスラム主義の台頭で不安定化したアフガニスタン

戦後の冷戦構造の中で、非同盟中立を維持してきたアフガニスタンでは、1973年に王族のダーウドがクーデターを起こして、王政から共和制に移行した。
しかし、78年には親ソ連派のアフガニスタン人民民主党が革命を起こし、タラキー書記長が首相に就任。
土地改革や男女平等などの改革を行った。
こうした社会主義的改革に対し、イスラム主義を掲げたムジャーヒディーンと呼ばれる反体制派が各地で蜂起する。

ムジャーヒディーン

ムジャーヒディーンとは「ジハード(聖戦)を行う者」を指し、反政府組織や対ソ連軍ゲリラの各組織が名乗った。
イスラム世界から多くの志願兵が集まり、後にアルカイダを率いるウサマ・ビンラディンも参加している。
ソ連の軍事侵攻に際し、アメリカがソ連を疲弊させる目的から、ムジャーヒディーンを支援している。

不安定なアフガニスタン政権

新たに政権を取った人民民主党政権も内部での対立がやまず、79年9月には副首相のアミンがクーデターで政権を奪った。
しかし、アミン政権がソ連から距離を置こうとすると、同年12月、イスラム主義の台頭を恐れたソ連はアフガニスタンに正規軍を派遣し、親ソ連派のカルマルを支援してアミン政権を打倒した。

ソ連の軍事行動と、西側諸国の非難

このソ連のアフガニスタン侵攻に対し、西側諸国は激しく反発してソ連軍の撤退を要求する。
ソ連が拒否すると、日本を含む西側諸国は翌80年に開催されたモスクワオリンピックをボイコットして抗議した。
さらに、81年に就任したアメリカのレーガン大統領は、ソ連を「悪の帝国」と呼んで激しく非難。
米・ソ間の軍縮交渉を通じて進んでいたデタント(緊張緩和)の雰囲気は吹き飛び、東西は再び緊張状態に突入してしまう。

アフガンは泥沼化し、ソ連も疲弊

また、親ソ連派政権樹立後も、アメリカの支援を受けたムジャーヒディーンの攻撃は続き、アフガニスタン情勢は泥沼化する。
ソ連軍は89年に撤退するが、この間に進んだ経済・社会の疲弊が、ソ連解体の遠因となってしまう。


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