湾岸戦争

多国籍軍とイラク軍のよる湾岸戦争

1979年、イラクではバース党のフセインが大統領に就任する。
当初イラクは、ソ連の支援を受けていたが、80年にイラン・イラク戦争が始まると、欧米の支援も獲得。
東西両陣営からの支援を受けた戦時下、フセインの独裁体制が強化された。
そしてフセインは、石油の利権を狙って、隣国のクウェートに軍事侵攻を開始、東西冷戦直後の世界秩序に挑戦するかのように湾岸戦争を引き起こした。
しかし、世界秩序の流れを読み誤ったフセインは、多国籍軍の戦力の前に脆くも敗れ去った。

イラクの独裁者 フセインが起こした戦争

イラクがクウェートに軍事侵攻

米ソによる冷戦終結宣言から8か月後の1990年8月2日、イラク軍が突如としてクウェートに侵攻、湾岸危機の発生である。
フセインは「クウェートは、石油の利権をイギリスにより、1914年に分離されたが、歴史的にはイラク・バスラ州の一部だ。」と正統性を主張した。
しかし、実際にはイラン・イラク戦争を巡る遺恨が深く関係していたという。

石油資源を狙った侵略

フセインは、イラン革命によるイスラム原理主義の波及を防ぐ防波堤となった自国に対する、クウェートの支援の少なさに不満を募らせていた。
また、長期にわたる戦争で発生した900億ドルともいわれる負債を、クウェートの石油資源で返済する目的もあったとみられる。
さらに、大国が冷戦終結後の新秩序構築に忙殺されている隙を突く狙いもあったが、このフセインの読みは大きく外れる事となった。

国連安保理が新たな国際秩序に

湾岸危機に対する国際社会の動きは素早く、8月2日当日には、国連安全保障理事会でイラク軍の即時撤退を求める決議が採択された。
以後も、対イラク経済制裁決議やイラク空域の封鎖決議などが可決され、11月29日には、翌91年1月15日を撤退期限と定め、これ以後のイラクへの武力行使を容認する決議も成立する。

米ソ両国の協力が、新たな秩序をもたらした

これらの決議には、米ソ両国とも賛成票を投じた(中国は決議を棄権)。
どちらかが、拒否権を発動して安保理が機能不全に陥っていた冷戦時代には考えられない事である。
国連の本来の理念である集団安全保障が初めて機能した事実に、国際社会は冷戦終結を改めて実感すると共に、新たな秩序の到来を目の当たりにした。
つまり、国際秩序の空白を突こうとしたフセインの読みとは真逆に、国際社会は対イラクで結束するという新たな秩序でまとまったのである。

湾岸戦争

そして撤退期限を過ぎた91年1月17日、アメリカ軍54万人を中心に28カ国で構成された多国籍軍は、軍事行動を開始する。
安保理決議に基づいて「砂漠の嵐(デザート・ストーム)」作戦を開始、湾岸戦争の始まりとなった。
多国籍軍の圧倒的な戦力の前にイラク軍はなすすべもなく、戦争開始から43日目、地上部隊投入からは僅か100時間で撤退を余儀なくされた。

日本の行動

なお、この湾岸戦争で日本は、軍隊(自衛隊)の参加を見送る代わりに、130億ドルもの資金援助を行っている。
しかし、こういったお金だけの援助で、一切血を流さなかった日本の行動は国際社会の支持を得られず、PKO(国際平和)協力法の議論が進めれた。


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