アジア・アフリカ会議

アジア・アフリカ会議(バンドン会議)

米ソから距離を置く「第三世界」が台頭する。
冷戦下で代理戦争の場となった旧植民地では、東西陣営から距離を置き、第三世界として国際平和を求める動きが現れた。

ネルーに牽引された第三世界の結束

冷戦において、実際に紛争の舞台となって戦火に見舞われたのは、朝鮮半島やインドシナ半島といった旧植民地の国々であった。
大国の代理戦争の場となったこの現実を前に、アジア・アフリカ諸国の間では、冷戦を批判して国際平和を求める機運が高まった。
これらの勢力は西側(第一世界)、東側(第二世界)に対して「第三世界」と呼ばれ、彼らの活動は、1950年代後半の東西の「雪解け」ムードを作り出す原動力の一つとなっていく。

インドの初代首相ネルー

第三世界のけん引役となったのは、インドの初代首相ネルーである。
彼は独立前の47年春から、旧植民地地域が独立後に連帯する可能性を探って国際会議を開催しており、54年には南アジアや東南アジアの五カ国が集まったコロンボ会議に参加した。
インドシナ戦争の早期休戦や民族自決などを訴えると共に、アジア・アフリカ会議の構想を提示している。

第一回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)

この構想は翌55年に実現し、インドネシアのバンドンに29カ国代表が集まって第一回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。
会議では、ネルーと中国の周恩来首相が前年に表明した平和五原則を拡大した平和十原則を採択した他、第三世界の結束を国際社会にアピールし、いまだに植民地支配が続く地域での独立運動に勇気を与えた。
また、これら第三世界の動きは、61年にユーゴスラビアのベオグラードで開催された非同盟諸国首脳会議などにも受け継がれていく。

ネルー(1889〜1964年)について

北インドの裕福な弁護士の過程に生まれ、英ケンブリッジ大学などに留学。
弁護士の資格を経て1912年に帰国した。
その後、ガンディーが指導する民族独立運動に参加。
国民会議派内で地位を高め、会議派議長などを歴任する。
47年の独立後、インド初代首相に就任。
娘のインディラ・ガンディーも後にインド首相を務めている。

第三勢力結集の経緯と平和十原則

1954年
4月
コロンボ会議
反植民地主義などを訴えた南・東南アジア諸国の首脳会議。
参加国のインド、セイロン(現スリランカ)、インドネシア、パキスタン、ビルマ(現ミャンマー)は「コロンボ・グループ」呼ばれた。
  • 民族自決 → 植民地独立
  • 水爆実験禁止 → 1963年、部分的核実験禁止条約
  • 中国の国連加盟支持 → 1971年、中華人民共和国国連加盟
  • インドシナ即時休戦 → 1954年7月、ジュネーブ休戦協定調印
  • アジア・アフリカ諸侯会議の開催 → バンドン会議・平和十原則
6月
平和五原則発表
ネルー首相(インド)と周恩来首相(中国)の会談で、中印の友好関係を規定した原則を全ての国家間の原則とすべきだとして共同声明を発表。
平和五原則
  • 領土・主権の相互尊重
  • 対外不侵略
  • 内政不干渉
  • 平等互恵
  • 平和的共存
1955年
4月
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
平和十原則
  • 基本的人権と国連憲章の尊重
  • 主権と領土保全の尊重
  • 人種・国家の平等
  • 内政不干渉
  • 個別的・集団的自衛権の尊重
  • 集団防衛体制反対
  • 相互不侵略
  • 国際紛争の平和的解決
  • 協力の促進
  • 正義と国際義務の尊重
参加国
イギリス領ゴールドコースト(現ガーナ)、イギリス・エジプト領スーダン(現南北スーダン)、ベトナム国(南ベトナム)、ベトナム民主共和国(北ベトナム)、カンボジア、ラオス、リビア、インドネシア、ビルマ、セイロン、インド、パキスタン、リベリア、シリア、フィリピン、ヨルダン、レバノン、イラク、エジプト、アフガニスタン、イエメン、イラン、エチオピア・エリトリア連邦、サウジアラビア、タイ、中国、トルコ、日本、ネパール
1961年
9月
非同盟諸国首脳会議
ユーゴスラビアのティトー大統領やネルー、ナセルらの提唱で25カ国が正式参加。
バンドン会議の精神を受け継ぎ、第三勢力の立場を強調した。

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