アジア植民地が独立

戦後、アジアの植民地が次々と独立

【1945年〜55年】
戦後に始まった植民地からの独立の波は、日本軍の占領地域で高まった民族自決の機運を起点としてアジア諸国から、アフリカ諸国へと波及した。

日本軍の占領地で高揚した東南・南アジアの民族運動

第二次世界大戦後、世界中で民族運動の活発化植民地の独立が起こった。
特に東南アジア・南アジアでは、終戦直後から続々と独立を宣言する国が現れた。
これは、宗主国であるイギリスやフランス、オランダなどが力を失っていた事もあるが、戦時中に進駐した日本軍の影響もあった。

1943年11月の大東亜会議

開戦後の日本は、欧米の植民地支配からアジアを開放し、アジア人による共存共栄を「大東亜共栄圏」の建設を戦争目的に掲げた。
そして、1943年にはビルマ(現在のミャンマー)とフィリピンの独立を認め、チャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府を承認。
同年11月には、これらの地域に加え、タイや満州国などの代表を東京に集めて大東亜会議を開催し、欧米による植民地支配からの脱却や人種差別撤廃を掲げた宣言を発表している。

戦況が苦しくり、日本が豹変

当初、現地ではこうした動きが歓迎された。
しかし、日本は何より戦争継続を優先し、占領地に軍政を敷いて、石油などの資源をなかば強引に調達し始めた。
戦況が悪くなるにつれ、日本軍は東南アジア諸国への態度が傲慢になっていったのだ。
これをみた占領地の民衆は、欧米に代わる日本の支配に抵抗するようになり、抗日勢力を組織していく。
ホー・チ・ミンが指導するベトナム独立同盟会(ベトミン)やフィリピンのフクバラハップ(フク団)、アウン・サン率いるビルマの反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)などがその代表だが、これらはいずれも、民衆の組織動員力に長けた共産党が中心となっていた。

欧米宗主国らの植民地への対応

植民地独立を認めた米・英

日本の敗戦後、抗日勢力は独立に向けて動き出すが、対する宗主国の動きは様々だった。
アメリカは親米政権を樹立した上でフィリピンを独立させる反面、新政府を支援して反米を掲げるフクバラハップを制圧させた。
また、戦争による疲弊で独立運動を抑える力を失っていたイギリスは、ビルマのパサパラやインドの国民会議派と交渉して独立を承認する。
パレスチナの委任統治も放棄した事で、ヨルダンなどが独立した。

軍事介入に踏み切った仏・蘭

逆に、フランスとオランダは植民地維持による戦後復興を企図。
日本の敗戦直後に独立を宣言したベトナムラオスカンボジアが同調する動きを見せると、フランスは軍を派遣して「インドシナ戦争」が勃発。
日本軍への協力で独立を目指したインドネシアも、終戦直後にスカルノが独立を宣言したが、オランダ軍の介入により独立戦争に発展した。
これらの戦争で植民地側が勝利すると、独立の波は、さらにアフリカなどへ波及していく。


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