60年安保闘争

安保闘争と保革対立

岸信介首相の政治手法が保革対立を激化させた【1959〜1960年】
東條内閣の商工相だった岸首相の政治姿勢が、旧安保条約の改定を切っ掛けとして、国民を巻き込む大規模な反対闘争を招いた。

国際的地位の向上を目指し、アジア外交を重視

1957年2月、鳩山一郎の後を受けた石橋湛山(いしばしたんざん)首相が病に倒れると、石橋と自民党総裁を争った岸信介が首相に就任する。
独立回復・国連加盟の流れを受け、岸は日本の国際的地位の向上を目指す。
「国際連合中心」「自由主義陣営との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」を外交の三原則に掲げ、親米反共に立ちつつアジア重視の姿勢を見せた。

日米新時代を目指し、日本の影響力をアジアに広げる

首相就任後の岸が選んだ初外遊先はビルマ(現ミャンマー)、インド、パキスタン、セイロン(現スリランカ)、タイ、台湾のアジア6カ国・地域である。
ただし、この外交姿勢は岸の掲げる「日米新時代」を実現するための方策だったという。
アジア諸国の経済発展に影響力を持つ事で、アメリカにとっての日本の重要性を高めようとしたのだともいわれている。

日米安全保障条約の改定

反米世論の高まりを回避したかったアメリカ

一方、アメリカとの関係では、日米安全保障条約(旧安保条約)の改定が懸案だった。
旧安保条約は在日米軍の日本防衛義務が明文化されていないなど、片務的かつ対米従属的な内容だったのだ。
これを日米の対等な関係に基づく条約に改定するよう提案したのは、駐日米国大使のマッカーサー(ダグラス・マッカーサーの甥)である。
当時の日本国内では、砂川事件などの反米基地闘争が起きていた。
マッカーサー大使は不平等な旧安保条約を改定しないままでいる事で、日本の世論が反米に傾く事を恐れていたという。

安保改正後、岸は辞任する事に

大使の尽力もあり、岸は60年1月に日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)と日米地位協定に調印する。
しかし、同年5月、岸が新安保条約の批推を衆議院で強行採決すると、革新政党や全日本学生自治会総連合(全学連)などが連日国会を取り巻く安保闘争に発展した。
条約が自然成立した後、岸は辞任を与儀なくされた。

戦後間もない日本だからこその政変

この安保闘争は、58年委警察官の権限強化を図る警察官職務執行法改正を提出するなど、「戦前回帰的」と見られていた岸個人に対する反対という側面が強かった。
岸は、かつての東条英機内閣の閣僚であり、A級戦犯容疑者でもあった。
そのため、「岸のやる事だから危険だ。」という国内世論が強かったのだ。
事実、岸の退陣後、安保闘争の熱は急速に冷めていった。
なお、岸信介の孫である安倍晋三(第96・97代内閣総理大臣)に対しても、的外れな批判をする声も少なからずあるようだ。

旧安保と新安保の主な違い

旧安保条約 新安保条約
在日米軍の日本防衛義務が明確化されず 日本の共同防衛義務を明文化
日本政府の要請で、米軍は日本国内の内乱・騒乱を鎮圧できる 米軍の内乱鎮圧条項を削除
条約の期限が明示されず 有効期限は10年。以後、一方の通告があれば1年後に廃棄可能。

↑ページTOPへ