武蔵野台地と江戸城

武蔵野台地に江戸城が築城

荒川と多摩川の間に広がる武蔵野台地

江戸城は武蔵野台地の先端に築城されたが、江戸城を難攻不落の城にしたのは武蔵野台地の複雑な地形だった。
武蔵野台地の起伏を活かしたこどで江戸城の巨大な堀を造る事ができたのだ。
また、家康の入部以前に既に発展しており、武蔵国の内陸ともつながる江戸湊と多くの街道が結節する江戸が軍事拠点に選ばれた。

太田道灌によって江戸城が築城(1457年)

扇谷上杉氏の家臣・太田道灌

江戸城は室町時代1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の家臣・太田道灌によって築かれたといわれる。
ただし、僧・松陰によって当時記された『松陰私語』には、江戸築城は太田道真・道灌の親子と、扇谷上杉氏の宿老の上田三戸・荻野谷氏などによって「数年秘曲を尽して相構えた」とある。

享徳の乱(1454〜1483年)のときに築造

道灌時代の関東は享徳の乱(1454〜1483年)と呼ばれる戦乱の中にあり、現在の東京低地は扇谷上杉氏の最前線だった。
そこで、武蔵国の内陸ともつながる江戸湊(えどみなと)や、さまざまな街道が結節する江戸に、軍事的な拠点として江戸城を築いたのである。

享徳の乱とは

当時、鎌倉には室町幕府の東国における監視機関である鎌倉府があったが、そのトップである鎌倉公方・足利成氏が、実権を握っていた関東管領(足利公方の補佐役)の上杉憲忠を謀殺した。
この享徳の乱によって、関東では西国に先立って戦国時代に突入した。

なぜ江戸が選ばれたのか

江戸は水陸の交通路の要衝だった

扇谷上杉氏が江戸築城に力を注いだのは、江戸の地理的な特性にあったとみられる。
江戸城は入間川(現、荒川・隅田川筋)や荒川(現、元荒川筋)などの大河川の河口部にあった。
また当時の日比谷は入江で、天然の良港となっていた。
さらに武蔵(東京都・神奈川県東部から埼玉県)と相模(神奈川県西部)方面や、房総・常陸(千葉県・茨城県)方面と連絡する街道の結節点だった。
つまり、江戸は水陸の交通路の要衝だったのである。

後・北条氏時代にも江戸は開発されていた

戦国時代、江戸は後・北条氏の所領

16世紀に入ると関東は小田原を本拠とする北条氏が進出し、江戸城も支配下に置く。
家康の江戸入部以降の江戸の様子を記した見聞録などによると、北条氏の江戸城は粗末な造りで、城下も寂れた風景描写がされているが、これは史実とは考えられていない。

江戸の開発は意図的に家康ばかりの功績にされた可能性

なぜかという、日比谷入江に注いでいた平川をつけかえ新たに掘った日本橋川に付替をしたのは家康とする説が強いが、なぜか大工事だったはずの付替工事のことを書いた史料がなく、北条氏によって付替られた平川の旧流路は、内堀としてすでに整備されるなど、開発されていた可能性が高いからだ。

江戸は扇谷上杉氏と北条氏らが開発していた

江戸は家康が入る前まで寒村だったわけではなく、扇谷上杉氏と北条氏によって約150年にわたって継続的に開発された地だったのである。

江戸はいつから「江戸」だったのか

鎌倉時代には「江戸」だった

「江戸」の地名は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』で「江戸太郎重長」という武士の名で初めて登場する。
平安時代後半には隅田川河口に設けられた「江の津」があり、それが「江戸」に転訛したとみられる。
当時の武士は自分の支配地を姓にして名乗っていたので、彼の存在は、本拠の地が「江戸」という地名であったことを示している。

「江の津」と「江戸湊」

「津」は、海岸や河岸にある船が着岸したり繋留したりする場所で、人や物資の集まる水上交通の要地のことである。
「湊」や「港」とも呼ばれるが、意味としては「地形や防波堤などを利用し、船舶を安全に泊めておくための場所」とされ、「津」に比べ構造的な広がりを示している。
現在は一般的に「港」が使われ、「湊」の方が古風な言い方となっている。

現在の東京とは中心地が違った

江戸といえば、現在の日本橋や京橋、銀座などが家康の江戸入部当初からの中心地域と思われることが多い。
しかし、当時の江戸の中心地域は、現在の常盤橋から浅草橋の間に形成されていた微高地だったと考えられる。
隅田川(間川)は武蔵国の内陸ともつながっており、上流部から運送される年貢や物資の集積地としての機能を考えると、江戸湊はその東側の海浜部と想定される。

家康以前の江戸

既に発展しており、寒村ではなかった

家康が入部した頃の江戸はさびれた寒村だったともいわれるが、これは家康が江戸を発展させたことを強調するためのものとされる。
江戸は中世の時点ですでに都市的な場として発展していた。
当時の江戸城は、河口には「高橋」が架かり、その橋の付近には商船や漁船が係留された。
江戸城内にあった静勝軒(じょうしょうけん)と泊船亭(江亭)に架けられていたとされる漢詩板『江戸城静勝軒銘詩序並江亭記等写』によると、城の東側を流れる川の河口には諸国から商船や漁船が出入りして、各地の特産品や外国からの輸入品がもたらされ、多くの人で賑わいを見せていたという。

低湿地帯の西側に、武蔵野台地

家康入部以前の江戸は、低湿地帯の西側には武蔵野台地と呼ばれる広範な丘陵地帯が広がり、現在の青梅市を頂点とした扇状地が西から東へと傾斜していた。
現在の都心部には久が原台、田園調布台、目黒台、豊島台など、さまざまな台地があり、江戸城は淀橋台(現在の新宿駅から神楽坂・飯田橋方面に延びる台地)の東端に建てられた。
一方、東側は南側に海を望む低湿地帯だった。

台地と低地からなる江戸の地形

江戸の土地は、地形的には「山の手」の台地と「下町」の低地で構成されるが、台地と台地の間には、侵食されてできた谷や沼、河川が流れていた。

もとは非常に複雑だった江戸の地形

現在の東京の地形は時間を掛けて整備がされてきたものだが、もとは非常に複雑な地形をしていた。
例えば、JR山手線の上野〜田端間は台地と低地の境界を走っており、上野から山手線で日暮里方面に向かうと、車窓の左側は台地だが、右側は低地になっている。
また、旧ふるかわ古河庭園は、北側の小高い丘には洋館、そして斜面を挟んで南側には日本庭園と、台地の斜面と低地という地形を活かしたつくりになっている。

江戸は坂の多い場所と少ない場所がある

土地が複雑に入り組んでいることもあり、東京(江戸)にはたくさんの坂があるが、その約6割を千代田区・港区・新宿区・文京区が占めている。
逆に江戸川区や江東区などの低地部や、練馬区や中野区などの台地部は、坂が比較的少ない。

複雑な地形ゆえに地名に「坂」がたくさんついた

「神楽坂」「団子坂」「紀尾井坂」など、東京に「坂」が付く地名が多いのは、江戸の町に「町名」があまりなかったからといわれる。
善光寺近くなら「善光寺坂」、名主の名前にちなんで「権之助坂」など、ありとあらゆる坂に名前が付けられたのである。

武蔵野台地の起伏を活かした江戸城の堀

「人工の堀」と「自然の堀」

近世の江戸城は内堀と外堀に囲まれていたが、武蔵野台地の起伏を巧みに活かし、優れた土木技術を駆使して築いている。
江戸城は南側に海、東側に川があったが、西側には武蔵野台地が広がり、防御に不安があった。
そのため、城の西側には人工的に開削された堀が目立つ。
一方で、川が造った自然の谷地を利用した堀もあり、江戸城の堀は自然の地形をうまく活かしてつくられている。

平に見えてもかなりの高低差がある

内堀、外堀にはそれぞれ海抜の高低差があり、例えば、内堀の半蔵堀と桜田堀を比べると、半蔵堀のほうが約15メートル高い。
外堀は内堀以上に高低差があり、四谷の真田堀が最も高い場所にある。
それぞそれぞれの堀と堀の間には水門があり、段々状の水面が数珠つなぎに連続している。


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