三木城の戦い

三木城の戦い

1578年3月、織田信長に反旗を翻した別所長治を討伐する為、羽柴秀吉は長治の居城であった播磨・三木城を包囲して「三木の干殺し」と呼ばれた兵糧攻め作戦を取る。
別所軍は2年以上にわたって籠城したが、次々と城兵が餓死していく中、長治は城兵の命と引き換えに切腹した。
戦いの後、信長は播磨を平定、秀吉はさらに鳥取城で吉川氏、備中高松城で清水氏と戦う事になる。

三木合戦絵図

三木合戦絵図(法界寺蔵)
別所氏の菩提寺である法界寺に江戸時代から伝わっている
合戦の一部始終が描かれている

三木城包囲まで

秀吉が補給路を攻撃
三木城への補給路は高砂城、魚住城、明石城のルートがあったが、秀吉はそれらの補給路を潰した後、平井山に三木城包囲の為の本陣を築く
補給路を新設
信長に謀反を起こした荒木村重から、花隈城を経由する補給路が新設される
新たな補給路を分断
秀吉は丹生山砦を攻撃して新たな補給路を分断、ことごとく補給路を断たれた三木城を孤立した

別所長治が信長に反旗を翻す

黒田官兵衛の活躍

天下統一を狙う信長は毛利輝元の勢力図である中国地方に侵攻する為、加賀攻めから勝手に長浜城に戻って来た羽柴秀吉に中国攻めを命じる。
この一連の戦いで活躍したのが小寺孝高(黒田官兵衛)である。
小寺孝高は永禄5年(1562年)に初陣を飾るが、この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。
官兵衛は当時の主君・小寺政職や別所長治、赤松則房などに、毛利方から信長方に付くよう説得したと云われる。

別所に続き、続々と謀反が相次ぐ

播磨(兵庫県)の大名も信長側に付き、さらに毛利の領地に近い備前・美作(岡山)の宇喜多直家も屈服させた。
その先に進もうとした矢先、信長方に付いていた筈の別所長治が、毛利輝元の誘いに応じて反旗を翻し、居城である三木城に立て籠ってしまった。
それに連動するように、荒木村重、中川清秀などが信長に対して次々と謀反を起こし、官兵衛の主君・小寺政職も毛利方に付いてしまった。

「三木の干し殺し」戦法

この各武将らの謀反の影響で、中国攻めは一旦は中断したが、態勢を立て直した秀吉は1578年、長治が立て籠もる三木城へと向かった。
長治は20万石を誇る播磨最大の大名であった。
城には大量の兵糧や弾薬が運び込まれていた。
正攻法では勝ち目が無いと考えた秀吉は、城への補給路を断つ兵糧攻めを開始する。

長治の自刃

秀吉の兵糧攻めは2年にも及び、孤立した城内では食糧が尽きる。
1580年8月、長治は三木城開城を決意し、城兵達の命を助ける事と引き替えに、妻子兄弟と共に自刃した。
秀吉からの贈物で、最後の宴会を行ったとされ、辞世は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」。

開場前の宴のようす

開場前の宴のようす

長治、友之の切腹のようす

長治、友之の切腹のようす

秀吉に兵糧攻めを授けた竹中半兵衛

この秀吉の兵糧攻めを秀吉に授けたのは、黒田官兵衛と共に「良兵衛」と称された竹中半兵衛だと云われるが、半兵衛は三木城包囲中に病死した。 三木合戦以降、秀吉は城攻めにおいて兵糧攻めを用いる事が多くなる。

戦いの影響

戦後、織田氏は中播磨、西播磨の諸城を攻略し、播磨を平定する。
官兵衛は居城であった姫路城を秀吉に提供、秀吉は三木城内の戦死者の供養や、三木城下町の再興などを行っている。
播磨平定によって、それまで「地方への玄関口」であった播磨に「畿内への玄関口」としての性格が生まれ、後に広大な姫路城が築かれることになる。


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