北ノ庄城の戦い

北ノ庄城の戦い

賤ヶ岳の戦い羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、北ノ庄城(福井市)に敗走する。
秀吉は、柴田軍から離脱した前田利家と合流し、1583年4月23日に北ノ庄城を完全に包囲した。
翌日、秀吉は総攻撃を仕掛け、夕方には天守が炎上。
勝家は、妻のお市の方と供に自害した。

利家と秀吉が北ノ庄城を包囲

まだ戦うつもりであった勝家

賤ヶ岳の戦いで敗走を余儀なくされた柴田勝家は、居城・北ノ庄城に戻って態勢を整えて、再び出直すつもりであった。
しかし、勝家の目論見は外れ、予想外の出来事が起こる。
ともに戦っていた織田家の重臣・前田利家が勝家を裏切り、秀吉側に付いてしまう。

利家は事前に秀吉と内通していた

この時期、勝家方として出陣していた前田利家は、秀吉の攻撃を受けていた。
利家は秀吉と若い頃から織田信長の下で苦楽を共にした戦友で、二人は家族同士の交流があるほどの仲であった。
賤ヶ岳の戦いでは、利家は、上司である勝家の命令によって出陣したものの、最初から秀吉と刃を交えるつもりはなかったといわれる。
その証拠に利家は、賤ヶ岳砦から離れた茂山に陣を張ると、戦闘が始まってもそこから動こうとはしなかった。
秀吉軍に攻められる勝家軍を見て、早々に居城・金沢城に引き上げてしまった

“勝家に付く”と見せ掛けていた利家

秀吉が利家に攻撃を仕掛けたのは、秀吉の戦略であった。
大将という立場上、勝家軍に属する利家に対して何もせずに見逃すのは不自然であった。
その為、敢えて利家に形だけの攻撃を仕掛ける事で、勝家に利家の裏切りを悟らせなかったのだ。
そして利家は直ぐに降参し、逆に勝家を攻める先鋒となったのである。

北ノ庄城包囲・炎上

利家を加えた数万の秀吉軍は、勝家が賤ヶ岳から敗走した翌日の4月23日には北ノ庄城を完全に包囲した。
小競り合いがあったものの、この日は大した戦闘もなかった。
翌24日早朝から秀吉軍の総攻撃が開始され、午後4時頃には天守が火に包まれている

北ノ庄城天守の復元模型

北ノ庄城天守の復元模型
柴田神社(北ノ庄城址)に展示されている
天守の屋根は鮮やかな青緑色で、城近くで採石された笏谷石が使用された

勝家・お市の方が自刃

落城前、お市の方は秀吉宛に書状を送り、3人の娘たちの庇護を懇願し、城外へ出した。
その後、夫の勝家とともに、猛火の中で自刃したといわれる。

戦いの影響

織田家の没落

信長の三男・信孝は与した兄・信雄に岐阜城を包囲されて降伏、後に信雄の命により自刃した。
信長の家臣であった滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。

秀吉の急速な躍進

この戦いの後、多くの織田氏の旧臣が秀吉に臣従するようになる。
ほどなく、秀吉は畿内の石山本願寺跡に大坂城の築城を開始、同年5月には朝廷から従四位下参議に任命されている。
そして、秀吉のもとには徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の有力大名が相次いで使者を送り、秀吉の下に多くの大名が集まる事となっていく。


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