木津川口の戦い

木津川口の戦い(石山合戦)

天正4-6年(1576-1578年)に二度起こった戦いで、石山合戦の戦局の一つ。
石山本願寺の支援に向かった毛利水軍と、それを阻止したい織田信長が激突した。
1576年の最初の戦いでは、毛利水軍の焙烙(手投げ弾)や火矢によって織田水軍は完敗した、毛利軍の本願寺への補給を許してしまう。
しかし、1578年の第二次木津川口の戦いでは、大型の鉄甲船を建造して臨んだ信長が圧勝した。

織田信長軍が使用した安宅船(19世紀の想像図)

織田信長軍が使用した安宅船(19世紀の想像図)
水軍の旗艦で、数百人の兵士の乗船が可能だったと云われる
上部には櫓が置かれ、船内の各所に狭間が設けられ、鉄砲や弓矢を射た

巨大戦艦「鉄甲船」を信長が建造

毛利水軍が大坂・本願寺に物資を送る

織田信長が一向一揆に苦しめられ続けたのは、一揆勢の数が多かった事の他に、反信長の態度をとる武将たちが一揆勢を支援した事も大きかった。
本願寺11世・顕如が信長との戦いで本拠地とした石山本願寺は、古代から交通の要衝で、海上から物資の搬入・搬出には最適な場所であった。
その為、反信長勢力の代表である毛利氏は、籠城戦を展開している顕如の為に、村上水軍小早川水軍と協力して、水軍を使って武器・兵糧を運び入れようとした。

第一次木津川口の戦い

これを阻止しようとする信長の水軍は、1576年に大坂湾・木津川口で激突した。
しかし、操舵技術に優れる村上水軍は、小早と呼ばれる小型快速船で織田水軍の攻撃を掻い潜り、焙烙(手投げ弾)や火矢を用いて攻撃。
織田水軍は成す術もなく壊滅し、兵糧を顕如がいる本願寺への補給を許してしまった。

巨大戦艦「鉄甲船」

この最初の戦いでの大敗により信長は、九鬼嘉隆に命じて、焙烙や火矢が効かない様に船体を鋼鉄で覆った「鉄甲船」を6隻建造させた。
全長22mといわれる巨大戦艦で、大筒・大鉄砲まで装備していたと云われる。
(ただし、この「鉄甲船」に関しては史料が乏しく、実態は明らかにされていない)
完成した6隻の鉄甲船は九鬼嘉隆によって率いられ、熊野浦を出発、大坂湾へ向かった。
その途中、海上で多数の小船が攻撃をかけてきたが、見事に撃退している。

第二次木津川口の戦い

1578年11月6日、嘉隆に率いられた鉄甲船は、再び木津川口で毛利・村上水軍と衝突
鉄甲船は、焙烙や火矢をものともせず、敵の大将が乗る船に近づいて大砲で一斉射撃を加えた。
毛利・村上水軍は近付く事も出来ずに、数百隻の船が退却した(兵糧については石山本願寺に無事に搬入したという見方もある)。
こうして信長は大坂湾の制海権を握り、武器・兵糧が途絶えた石山本願寺は、2年後に開城した。

九鬼水軍絵画(大阪城天守閣蔵)

九鬼水軍絵画(大阪城天守閣蔵)
文禄の役に参陣する九鬼水軍を描いている
九鬼嘉隆が率いた九鬼水軍は、伊勢長島一揆や木津川口の戦いなどで勝利に貢献


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