伊勢・長島一向一揆

伊勢・長島一向一揆

長島一向一揆は、1570年から1574年に掛けての石山合戦に伴い、伊勢長島(三重県桑名市)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆
織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。
1574年には、信長は一向一揆を殲滅する為、信忠や柴田勝家など有力武将らや、九鬼嘉隆率いる水軍を動員した。
総勢8万人の大軍勢で名が品を包囲し、信長は門徒2万人を焼き討ちにした。

『太平記長嶋合戦』歌川芳員

『太平記長嶋合戦』歌川芳員

大規模な一向一揆

信長の本拠地・岐阜付近での一揆

織田信長を苦しめた一向一揆のうち、最も悲惨な戦いとなったのが伊勢長島一揆である。
長島は信長の本拠地である岐阜に近く(伊勢国と尾張国の境界付近)、一向宗(浄土真宗本願寺派)の中興の祖といわれる蓮如の6男・蓮淳が創建した願証寺があり、一向一揆の一大拠点となっていた。

『新撰太閤記 長島一向一揆』歌川豊宣

『新撰太閤記 長島一向一揆』歌川豊宣

一向宗の蜂起で信長の弟・信興が自刃

1570年、石山本願寺顕如が発した「仏敵信長と戦え」という命令の下、長島の一向宗門徒(信者)は長島城を攻めて奪い取り、信長への対立姿勢を示した。
緒戦は一揆勢が優勢で、小木江城を守っていた信長の弟・信興は、11月21日に自刃に追い込まれた。
小木江城は一向宗に奪われ、さらに桑名城の滝川一益を敗走させた。
この頃、信長は近江国で朝倉氏・浅井氏と対陣しており(志賀の陣)、救援に赴く事ができなかったのだ。

第一次長島攻め

翌1571年、長島城を落とすべく信長自身も5万の兵を率いて出陣したが、総攻撃を仕掛ける直前に一揆勢が攻撃して来て、敗走せざるを得なかった。
柴田勝家が負傷し、氏家卜全と、その家臣数名が討ち死にした。
この戦いで、一向宗は数で押し切る一揆とは違い、戦略的に優れた“戦”を展開しており、信長は長島に対しての侵攻作戦内容の再考を余儀なくされた。

第二次長島攻め

1573年9月、信長は数万の兵を率いて再度長島攻撃を行った。
一揆勢の篭る西別所城・坂井城・近藤城を陥落させ、降服させる。
信長は北伊勢の平定には成功するが、長島への直接攻撃は見送らざるを得なかった。
帰路に着く信長であったが、またしても一揆勢のゲリラ部隊に襲撃され、敗走の形となってしまう。

第三次長島攻め

1574年7月13日、信長は嫡男・信忠と共に8万人の大軍を率いて岐阜城を出発し、三度目の長島攻撃を開始した。
木曽川、長良川、揖斐川に囲まれた長島城を落とす為、滝川一益と九鬼嘉隆の水軍も動員して完全に封鎖。
信長は一揆衆を殲滅する為、飢餓に耐え切れず城を脱出した約1000人の門徒、降伏を申し出て長島から退去しようとした者達を男女の区別なく攻撃、殺害してしまう。
最後まで落ちなかった中江城と屋長島城では、約2万人を焼き殺したという。

虐殺される門徒

虐殺される門徒
信長は降伏を申し出た門徒たちを許さず、待ち構えていた鉄砲隊に攻撃させた

長島城のその後

門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。
賤ヶ岳の戦い後は織田信雄の居城となった。


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