東彼杵町-長崎街道めぐり

長崎街道の道標。後ろに線路(彼杵-千綿)と海(の上に日本二十六聖人の乗船場跡)が見える(東彼杵町彼杵宿郷837-10付近) 長崎
東彼杵~長崎街道沿いの癒しの景観

長崎街道めぐり、次は『東彼杵町』です。長崎県内の長崎街道がとおる地としては最北部となり、ここを東に行くと嬉野(小倉方面)、南に行くと大村(長崎方面)となります。東彼杵の長崎街道はとても心癒される景観が多いです。
東彼杵町については下の引用文をご覧ください。

東彼杵町の沿革。東彼杵町は昭和34年5月、彼杵町と千綿村との合併によって誕生しました。長崎県のほぼ中央部に位置し、人、産物、情報が集まる玄関口として知られています。基幹産業は県内荒茶生産量の約6割を占め、何度も日本一に輝いた「そのぎ茶」をはじめとする農業。温暖な気候と多良山系の山々が美しい自然を育み、いちごやみかん、アスパラ、肉用牛なども生産されています。また、古くから街道が交わる交通の要衝。長崎、佐世保両市まで約1時間で結ぶJR大村線が運行し、国道は町内を南北に縦断。長崎自動車道の東そのぎインターチェンジもあります。小高い丘一面に広がる茶畑の柔らかな緑、時間ごとにその表情を変える大村湾の紺碧、山海を暖かなオレンジ色に染め上げる夕日。日々の暮らしの中でふとした安息を感じられる景観は、訪れた人々に癒しを与えてくれます。オンリーワンの景観を活かした癒しのツーリズムで、東彼杵町は“一流の田舎”を目指しています。(道の駅・彼杵の荘 案内板より)

“一流の田舎”というワードはとても好いですね。実際、東彼杵町は、とても好いモノが一カ所にひしめき合ってる街だと思います。

彼杵駅付近

今回はJR彼杵駅近くの国道205号線より街道に入ります。すると、さっそく商店街が。

活気のある商店街

街道沿いの商店街はシャッター街と化してる場合が多いですが、ここ彼杵駅最寄の商店街はとても活気に溢れています。史跡だけではなく、米屋・寿司屋・酒店・製茶屋など、街道らしいお店が現在もたくさん営まれています。

街道沿いの寿司屋・喜久寿司(東彼杵町蔵本郷1870)

国道205号線より長崎街道・小倉方面(嬉野方面)を望む。前方のお店は入江京呉服店(東彼杵町蔵本郷1848付近)長崎街道。前方奥に彼杵港・旧港がある(東彼杵町蔵本郷1866)街道沿いのお米屋・港屋商店(東彼杵町蔵本郷1863付近)長崎街道沿いの彼杵神社、一の鳥居(東彼杵町蔵本郷1880-1付近)

ここで神社を発見。「彼杵神社」です。

彼杵宿本陣跡~彼杵神社

彼杵宿本陣跡の道標と案内板、彼杵神社の一の鳥居(東彼杵町蔵本郷1880-1付近)彼杵宿本陣跡の案内板(読めるように加工しています)(東彼杵町蔵本郷1880-1付近)彼杵神社の一の鳥居のしめ縄(東彼杵町蔵本郷1880-1付近)

本陣・御茶屋跡です。そして、現在は神社となっております。桜が見事です。(二枚目の案内板の写真は読めるように加工しているので、色がおかしなことになってますが、ご勘弁を)

彼杵御茶屋(本陣)。江戸時代の初期、幕府の命により街道の整備が行われた。寛永10年(1633年)幕府巡見使の視察に併せ、472坪(約1560㎡)の敷地に五棟が建築され、長崎街道彼杵宿の本陣(宿泊所)として幕府の要人・大名等が利用した。明治13年(1880年)、この本陣跡に彼杵神社が遷座された。(案内板より引用)

彼杵神社の二の鳥居と拝殿(東彼杵町蔵本郷1880-1)彼杵神社の拝殿(東彼杵町蔵本郷1880-1)彼杵神社の二の鳥居と一の鳥居(東彼杵町蔵本郷1880-1)彼杵神社の案内板

主祭神はかの有名なスサノオノミコトだそうです。

◇ご由緒(歴史)。当神社は、主祭神・健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)をはじめ、相殿に五柱の神々をお祀りする社である。創建時代は不詳であるが、元・熊野十二社権現あるいは熊野神社と社名を称え、その社伝によると、往時 真言宗安全寺が今の蔵本郷島田の浜宮近くに建立され、この彼杵の地名の起源ともされているところの大きな杵がこの安全寺の上に天降り、この杵をもって十二社権現の御神像と阿弥陀如来の仏像を彫刻して祀ったのが始りと伝えられている。その後、時代を経て天正二年(一五七四年) キリスト教徒の暴動により領内の神社仏閣はことごとく破壊され、当社もその災いにかかり衰退していたが、正保三年(一六四六年)再建、更に元禄九年(一六九六年)再営された。それからのち、彼杵総鎮守の氏神様として今まで以上の崇敬を集め明治七年郷社に列せられた。同年滝川内鎮座の貴船神社を合祀、翌八年口木田郷鎮座の諏訪神社を合祀。明治十三年には社殿を現在地(幕藩時代 彼杵本陣跡地)に遷し、菅無田郷鎮座の天満宮を合祀、社名を彼杵神社と改称した。(案内板より引用)

そして、先へ行くと彼杵名物のお茶のお店があり、その先には、脇本陣跡。その正面に何やら趣のある門があります。

街道沿い製紙屋・紙谷製茶本店。左側に彼杵神社(東彼杵町彼杵宿郷199)街道沿い製紙屋・紙谷製茶本店(東彼杵町彼杵宿郷199)

赤レンガ門~銀行変遷の歴史遺構

親和銀行彼杵支店の赤レンガ門とのこと。見事なほど、門だけがそこに残されてありました。案内板に古写真が掲載されています。

赤レンガ門(東彼杵町蔵本郷1878-1)赤レンガ門の由来、紹介(東彼杵町蔵本郷1878-1)

赤レンガ門の由来。親和銀行彼杵支店は、遠く明治30年、9月30日設立された福竹銀行(竹松村356)を発祥として、明治39年6月27日、彼杵銀行(彼杵村590)と改称 大正8年7月25日 現在地へ移転(彼杵村蔵本郷1878) 以後、時代とともに幾多の変遷を経て、昭和16年4月1日、親和銀行彼杵支店として、今日までに至っています。この赤レンガは当時より通用門として使用され、当町の銀行変遷を偲ぶ遺構として、現在も町民の方に親しまれています。平成9年4月創業100周年問記念事業 親和銀行彼杵支店長(案内板より引用)

彼杵宿脇本陣跡

彼杵宿脇本陣跡(東彼杵町蔵本郷1872)彼杵宿脇本陣跡の案内板(東彼杵町蔵本郷1872)彼杵宿脇本陣跡の道標(東彼杵町蔵本郷1872)

脇本陣跡地。案内板にこの彼杵宿を通った知名人が記されています。気になったのは、なぜ坂本龍馬や勝海舟が含まれていないのか、です。

脇本陣。当地で商業を営んでいた森家の一部を、本陣の補助的な旅館として利用されていたが、宝暦2年(1752年)に改築され、脇本陣に指定して上級武士の宿泊所として利用した。広瀬淡窓(ひろせたんそう)は長崎大村藩に招かれ「彼杵」を訪れた時、脇本陣に宿をとりました。広瀬淡窓 天明2年(1782)~安政3年(1856) 大分県日田市に生まれ儒学者
長崎街道彼杵宿を通った知名人、シーボルト(南館医師)、ケンペル(南館医師)、ツンベルグ(南館医師)、ズーフ(南館長)、フィッセル(東インド会社)、長久保赤水(地学者)、蝶夢(俳人)、古川古松軒(地理学者)、司馬江漢(絵師)、長月庵暑翁(俳人)、菱屋平八(筑紫紀行著者)、伊能忠敬(測量技師)、野田成亮(修験僧)、頼山陽(儒学者)、広瀬淡窓(儒学者)、吉田松陰(儒学者) (案内板より引用)

商店街がつづく

本当に味わい深い街道の商店街で、撮った写真を全部載せてしまいたくなります。

長崎街道沿いの酒店・藤田酒店(東彼杵町彼杵宿郷198)街道沿いの商店街。シャッターが閉じている店もあるが、とても味わい深い風情(東彼杵町彼杵宿郷2-8付近)街道沿いの家具店跡。左下に長崎街道の道標と「思案橋」の石碑(東彼杵町彼杵宿郷2)長崎街道の道標と「思案橋」の石碑(東彼杵町彼杵宿郷2)

元禄船着場跡~旧彼杵港

街道の奥にある旧彼杵港、小さい港です(写真には写ってませんが、右(北西方向)に大きな港があります)。奥に八坂神社が映ってますが、残念ながら今回は工事のために行けず。案内板にある絵画は必見です。

彼杵港・旧港。奥に八坂神社が見えるが、工事のため近づけず。2026年4月8日(東彼杵町彼杵宿郷62)長崎街道 元禄船着場跡 説明板(東彼杵町彼杵宿郷94)説明板の切り抜き。当時の港のようすが描かれている。(東彼杵町彼杵宿郷94)元禄船着場跡 石碑(東彼杵町彼杵宿郷94)

元禄船着場跡。元禄年間に築港された彼杵港は、石段で築かれた舟の乗り降り場です。長崎街道の往来がひんぱんであった江戸時代から明治にかけては、長崎からの商品や各地の産物を始め、五島近海で捕れた鯨もこの港に荷揚げされた後、九州各地に運ばれ、彼杵宿はたいへん繁栄しました。オランダ商館医ケンペルもこの海路を利用しています。その当時の船賃、そのぎ~時津間は1人(約140文・・1文は現代の約18円)(案内板より引用)

旧彼杵港から街道へ戻ります。

再び街道へ

街道、長崎方面(東彼杵町彼杵宿郷95)街道(東彼杵町彼杵宿郷184)街道(東彼杵町彼杵宿郷248)街道。小倉方面を振り返る(東彼杵町彼杵宿郷859)

本町万部塔

案内板に古写真が掲載されてますので必見。

本町万部塔(東彼杵町彼杵宿郷859)本町万部塔の案内板(東彼杵町彼杵宿郷859)

本町万部塔。江戸時代の初頭、キリスト教の追放が強化され、大村藩内仏教に改宗が進められた。明暦3年(1657年)、現在の大村市内で多数の隠れキリシタンが発見された「郡崩れ」があったので、長崎街道沿いや集落の中に仏教徒の証として寛文4年(1664年)に十五基の宝塔が建立されたのも一つである。(案内板より引用)

ここから街道を外れ、右に行くと「日本二十六聖人 乗船場跡」があります。

日本二十六聖人 乗船場跡

キリシタン関連の史跡です。処刑されたキリシタン26人がこの場所から舟に乗せられ刑場へ送られたとのこと。とても悲しい歴史ですね。このような優しい空気の場所でそのようなことが行われたと、現地では到底、思いもしませんでした。

乗船場跡(東彼杵町彼杵宿郷329)日本二十六聖人 乗船場跡(東彼杵町彼杵宿郷329)日本二十六聖人 乗船場跡 案内板(東彼杵町彼杵宿郷329)

日本二十六聖人乗船場跡
日本二十六聖人、それは、西暦1597年(慶長2年)2月、長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒であるという理由で処刑された、日本最初の殉教者である。
スペイン人のフランシスコ会司祭ペトロ・バウチスタはマニラで布教ののち、フィリピン総督の使節として1593年来日、肥前名護屋の朝鮮陣本営で豊臣秀吉と会見するなど日比通商条約締結に努力したが、サン・フェリベ号入港事件を契機とする、豊臣秀吉のキリスト教禁教令の強化により、京都、大阪のキリシタンとともに捕えられた。
豊臣秀吉は、殉教者達を厳しく罰することで人々へのみせしめにしようと陸路を徒歩で、或は馬で、1日約7~8里とゆっくり歩かせた。
1月9日、堺を立った24人のキリスト教信者達は、堺、姫路、岡山、広島を通り、1月31日博多に到着、翌日、肥前名護屋近くの村、山本で捕われ人は26人となり長崎へと進んだ。やがて、苦しい登りの道を越えて大村領の俵坂峠にたどり着くと、足もとに湖のような静かな大村湾の素晴しい景色が広がっていた。
そこで休息したペトロ・バウチスタは、岩の上に腰をおろして黙想した。今・・・・・・死地へ向かって進んでいる。しかし自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それを継ぐべき同僚までも共に死んでいく。ペトロ・バウチスタがすべてを捧げた仕事は、がらがらと崩壊していくかに思われ、とめどもなく涙が落ちた。
昼を少し過ぎたころ、殉教者達は彼杵へはいった。
やがて、殉教者のうちフランシスコ会士以外は皆手を縛られ、彼杵の浜辺に降りると、そこには三艘の船が繋いであった。それぞれの船に乗船させられた殉教者達は、水路時津へと向かった。空には、残月が光り始め、岸のあちこちに漁村の灯火がまたたき、舟は、単調な櫓の音を響かせながら、静かに水面を分けていった。翌2月5日、26人の殉教者達は、長崎西坂の地で処刑された。
1862年6月7日、荘厳な祭典のうちに教皇ピオ九世は、西坂の26人の殉教者を聖者の列に入れた。
この日本二十六聖人乗船場跡記念碑は、この殉教者の残した足跡を記念するため、1986年、多くの人々の協力で建設されたものです。東彼杵町
(案内板より引用)

街道へ戻り、次へ進みます。

下川橋で彼杵川をわたる

丈夫な橋で彼杵川を渡ります。北を見ると飛び石が見えます。ちょっと広めの川ですが、飛び石で渡れるほどの深さなのですね。

彼杵川をわたるための下川橋(東彼杵町彼杵宿郷263)下川橋の上から彼杵川を望む(写真は北向き)(彼杵宿郷)下川橋をわたり、小倉方面を振り返る(東彼杵町彼杵宿郷263)

もう一つの「日本二十六聖人乗船場跡の碑」

先ほど、川を越える前に海の近くで立ち寄った「日本二十六聖人乗船場跡の碑」がこちら(東町公民館)にもありました。こちらは木製の碑ですが「河口右岸松林」の一文が追加されています。(保管目的で置かれてるだけだったら申し訳ない)

日本二十六聖人乗船場跡の碑。東町公民館の横に設置されている。(東彼杵町彼杵宿郷351-3)日本二十六聖人乗船場跡の碑。東町公民館の横に設置されている。(東彼杵町彼杵宿郷351-3)街道。前方に旧岳中家住宅がみえる(東彼杵町彼杵宿郷354-4付近)街道(東彼杵町彼杵宿郷376-3)

一本松一里塚跡

ここで一里塚を発見!「一本松一里塚跡」です。と言いたいのですが、なんと見落としてしまい、写真を取り逃がしてしまいました。ということで、こちら→ストリートビュー(一本松一里塚跡)をご覧ください。

人里を離れ、街道は静かになっていく

そして、名もなき小さな川を越えると、畑や空き地が目立ってきました。

民家の間を流れる名もなき小さな川(東彼杵町彼杵宿郷414)街道。右に畑(彼杵町彼杵宿郷403-2付近)街道。前方に踏切(彼杵町彼杵宿郷403-2付近)踏切(武安踏切)と交差する街道(東彼杵町彼杵宿郷836-1付近)

街道と踏切が交差します。これはとても絵になります。

踏切と街道が交差。小倉方面を振り返る(東彼杵町彼杵宿郷403-2付近)名もなき小さな川(東彼杵町彼杵宿郷832-1)街道。「兵間のぶつだん」と書かれた看板が貼ってあるお店跡(?)(東彼杵町彼杵宿郷836-1)街道(東彼杵町彼杵宿郷837-10付近)

踏切を越え、再び名もなき小さな川を越え、人里離れた空間へと街道は進む。

国道を横切り、街道は上り坂へ

街道を国道34号線が横切る。信号機「町民グラウンド入口」を挟み、奥に続く上り坂が街道(彼杵宿郷)街道(小倉方面)と道標(東彼杵町彼杵宿郷837-10付近)長崎街道の道標。後ろに線路(彼杵-千綿)と海(の上に日本二十六聖人の乗船場跡)が見える(東彼杵町彼杵宿郷837-10付近)街道を国道34号線が横切る。信号機「町民グラウンド入口」を挟み、奥に続く上り坂が街道(彼杵宿郷)

ここで「長崎街道 東彼杵町」の道標を発見。そして、国道34号線を横切ると、街道は上り坂を進むこととなります。ここから先、アップダウンは多少きついですが、とてものどかで、街道感あふれる道が待っています。

長崎街道。擁壁の上には畑がある。(東彼杵町彼杵宿郷955付近)国道の向こう側の街道と撮影者の街道は本来は一本道だった。上から見ると、現在の街道は国道建設時に位置が微調整されたことが伺える。(東彼杵町彼杵宿郷955付近)街道、小倉方面を振り返るとよい眺め。前方に日本二十六聖人の乗船場跡(東彼杵町彼杵宿郷957)街道。大村湾を一望できる(東彼杵町彼杵宿郷970付近)

写真一枚目、街道の上り坂。左側の擁壁はかつては石垣だったのだろうか。二枚目、小倉方面へ旧街道を振り返る。三枚目、さらに坂を登ると、擁壁の上に畑と思わしき荒れ地。小さな石垣があるが、擁壁と繋がっている(一枚目の擁壁も石垣だったのでは、という根拠がこれ)。四枚目、大村湾を一望できる。

小さな神様を発見

街道。木々が生い茂り、先が見渡しにくい。(東彼杵町彼杵宿郷962)街道。後ろを見ると、やはり海がキレイ(東彼杵町彼杵宿郷962)街道沿いの小さな祠。「水」と書いてるように見える(東彼杵町彼杵宿郷1058-2付近)山の斜面のぐねった街道。小さな祠がみえる(東彼杵町彼杵宿郷1058-2付近)

後ろを見ると海がキレイですが、前を見ると、木々が生い茂り、道の先を目では見付けられない。そして、小さな祠を発見。祠の中にはお供え物がしてあり、「水」と書かれた仏が見えます(写真は文字が読めるように加工してあります)。「八百万の神」といいますが、本当、至る所に神様がいますね。軽くご挨拶だけさせて頂きました。

坂を登りきると、澄んだ下り坂が顔を出す

街道、上り坂。右に介護施設がある(彼杵宿郷1085付近)街道、上り坂を(小倉方面へ)振り返る。奥に日本二十六聖人の乗船場跡が見える(彼杵宿郷1085付近)街道の下り坂。人工物があまりなく、比較的、かつての風景を遺していると思われる(東彼杵町千綿宿郷79付近)街道の下り坂。桜がキレイ(東彼杵町千綿宿郷79付近)

介護施設の横を通り、上り坂を登りきると、次は下り坂。下り坂は比較的、人工物が少ない、落ち着いたようすを残す。これで地面がアスファルトでなく、道幅がもう少し狭かったら完璧な街道。
とても好い風景だったので、写真を多めに載せます。

街道の下り坂を振り返る(千綿宿郷77付近)街道の下り坂(千綿宿郷77付近)街道の下り坂(千綿宿郷77付近)街道の下り坂。奥に大村湾と棚田が見える(千綿宿郷68)街道の下り坂。奥に山と海と街並みがみえる(千綿宿郷68付近)草に覆われた街道の道標。街道は下り坂。小倉方面を振り返る(千綿宿郷68付近)草に覆われた街道の道標(千綿宿郷68付近)街道の下り坂。とても眺めが良い(千綿宿郷8-1付近)

木々に覆われ先が見えない街道が、とても桜がキレイな下り坂。進むうちに視界が晴れ、大村湾と東彼杵の棚田が見えてくる。ふと右を見ると、草むらに「長崎街道」と書かれた道標を発見。道を間違えてないことに一安心。

下り坂の街道が国道34号線と交差。交差後の街道が正面右側に見える。大村湾と小さな港、棚田、鉢巻山がみえる(千綿宿郷23-2付近)街道(右側)と国道(左側)が交差(千綿宿郷23-2付近)国道(左)と街道(右)(千綿宿郷:信号テクノパーク入口付近)街道を振り返る(千綿宿郷:牛頭踏切付近)

坂を下りきると、国道34号線を横切る。ここで、いま 来た道を振り返ってみて、かつて街道だけが通っていた時の地形を想像してみると楽しい(四枚目)。

千綿宿周辺

千綿宿、および、その周辺にやって来ました。なお、千綿宿には特に本陣跡などはありません。が、街道感あふれる“道”がしっかり残っております。

街道と線路が交差する。牛頭踏切。前方の坂は国道(千綿宿郷)街道と線路が交差する。牛頭踏切(千綿宿郷)線路と街道(千綿宿郷1052-1付近)

街道は踏切を越え、町の中へ。
ここはとても海が近い。というか標高が低い。よくこんな所に街道を走らせたものだと驚く。

供養塔だろうか(千綿宿郷859付近)供養塔だろうか(千綿宿郷859付近)街道(千綿宿郷859付近)

供養塔のような石の塔を発見。すぐ近くには「牛ノ頭壺日審上人霊場」がある。その遺構の一部だろうか。

牛ノ頭壺日審上人霊場(千綿宿郷859)牛ノ頭壺日審上人霊場(千綿宿郷859)牛ノ頭壺日審上人霊場(千綿宿郷859)牛ノ頭壺日審上人霊場。祠の内部。お供え物からとても大切にされている様子がうかがえる(千綿宿郷859)牛ノ頭壺日審上人霊場(千綿宿郷859)牛ノ頭壺日審上人霊場(千綿宿郷859)牛ノ頭壺日審上人霊場(千綿宿郷859)

「長崎街道 牛ノ頭壺日審上人霊場」と石碑に記されています。とくに案内版などは設置されていない為、歴史などは確認できず。祠の内部を見ると、お供え物・花などからとても大切にされている様子がうかがえる。

街道(小倉方面を振り返る)。奥に国道をわたる前の街道(坂道)が見える(千綿宿郷1052-4)街道。少し進むと「旧土肥家」の屋敷がある(千綿宿郷1064付近)千綿川をわたる長崎街道の橋(八反田郷1039付近)

旧土肥家

江戸時代から明治初期の豪商・大浦慶の商家です。

旧土肥家(千綿宿郷1067)旧土肥家の案内板(千綿宿郷1067)旧土肥家(千綿宿郷1067)旧土肥家を後にし街道を進む(千綿宿郷1086付近)

ここ土肥家は、長崎街道の宿場町として商工業が栄えた[千綿宿]の商家で江戸時代から回船業を営み、日本茶輸出の先駆者である長崎の豪商・大浦慶のお茶や農産物の出荷をしていた。また、この家は、明治末期に建てられたもので、格子戸や白壁の建築様式からは、その時の繁栄と風かく格が感じられます。現在、岡田家が引き継ぎ、貴重な歴史的な建造物として保存継承しています。-大浦慶(1826~1884)について。茶の輸出の創始者・明治維新を支えた女傑。お慶は安政三年(1856)イギリス商人オルトと茶の輸出契約を結び、安政六年(1859)釜炒り茶1万斤(6トン)を輸出し、古い伝統を持つそのぎ茶も海外に出ていきました。お茶の貿易で巨万の富をえたお慶は幕末の志士(坂本龍馬、大隈重信他)にも大金を貸したという逸話も残っています。(案内板より引用)

街道。千綿宿周辺(東彼杵町千綿宿郷1191)街道。千綿宿周辺(東彼杵町千綿宿郷1212)街道。右側にタバコ屋跡(千綿宿郷1271)街道。左側、呉服店跡だろうか(千綿宿郷1296)

千綿宿の周辺。シャッター街と化してはいますが、かつて商店街が賑わっていた頃のようすを伺させる、とても味わい深い街並みです。

小さな川をこえると八反田郷へ

街道を横切る名もなき小さな川。奥に棚田と墓地が見える。(千綿宿郷1292)街道。小さな橋を越えると八反田郷(東彼杵町八反田郷997)シャッター街の中、営業中の理容室がある(東彼杵町八反田郷998付近)街道。これから千綿川をわたる(八反田郷1022)

小さな川をこえると八反田郷となります。営業中の理容室を発見。理容室は時代の変化にとても強い業種ですね。
そして、次に、橋をつかって千綿川をこえます。そちらは大きな川。
(向こう岸に行ってから、どうやら道を間違えしてしまったようです。一部、写真を取り逃がしてしまいました)

千綿川をわたる長崎街道の橋(八反田郷1039付近)千綿川をわたる長崎街道の橋(瀬戸郷1181付近)千綿川をわたる長崎街道の橋(瀬戸郷1181付近)本来の街道は左。線路に阻まれ進めないので順路としては右になる。(瀬戸郷1181付近)

まずは、橋をわたります。(一・二・三枚目)、
次に、写真四枚目。本来の街道は左に行ってました。現在は、右から回り込む(左が行き止まりなので)、が順路のようです(しかし、僕は右にしか行っておらず、左の写真を撮ってませんでした)。左に直進して、さらに「右折」すると、下の一枚目の場所に“かつては”たどり付きました。(現在は国道と線路に塞がれて、迂回しなければ行けない)

龍頭泉道の石碑

千綿川沿いへ続く長崎街道(瀬戸郷859)龍頭泉道標(瀬戸郷1102-2)龍頭泉道標と街道(瀬戸郷1102-2)龍頭泉道標の付近から振り返る(瀬戸郷1102-2)

一枚目、本来の街道(正面のT字路を左折すると、先述四枚目の写真に“かつては”たどり付いた。)。二枚目、龍頭泉道の石碑(二・三枚目)、そこから少し進んで振り向くと、一枚目と三枚目の道がきれいに道が繋がって見えます。(四枚目)

街道(瀬戸郷1186-1付近)街道(瀬戸郷1212付近)街道(瀬戸郷1212-3付近)街道(瀬戸郷1263付近)街道(瀬戸郷1263付近)街道。前方に道標と六地蔵(瀬戸郷1266-1付近)街道と道標。古く大きな石垣がある(瀬戸郷1266-1)立派な石垣(写真は意図的にコントラストを下げている)(瀬戸郷1266-1)

龍頭泉道の石碑よりまっすぐ進むと、のどかな農村の中を街道は進む。少し進むと、街道の道標を発見。その道標のすぐ傍の石垣がとても立派。写真では伝わりにくいが、石の一つ一つがすごく大きい。

長崎街道。六地蔵と奥に鉢巻山(瀬戸郷859-3923)長崎街道・六地蔵(瀬戸郷859-3923)左・六地蔵、右・千部塔(瀬戸郷859-3923)街道(瀬戸郷1288付近)

「六地蔵」と「千部塔」があります。傘つきのものが六地蔵、板碑が千部塔です。六地蔵はよく見ると上部に複数の地蔵がついてます。

街道(瀬戸郷1288付近)街道(瀬戸郷1288付近)街道沿いの水路(瀬戸郷1388-1)街道(瀬戸郷1346)

街道を横切る、味のある細い小川(というか水路)をパシャリ。(三枚目)
そして、ここからはさらに街道らしくなっていきます。

街道(瀬戸郷1350)街道(瀬戸郷1350付近)街道。道の先に街道の道標がある。右のフェンスの下は崖で、国道と線路と海(瀬戸郷1331付近)撮影者が立っている場所が街道。左に道標がみえるが、やや紛らわしい位置にある。海がとてもキレイ(瀬戸郷1331付近)

車が通るには苦労しそうな細い道。右は崖に近い地形で、傍に海がみえる。

フェンス越しの街道(小倉方面むき)。左(南東)に国道と線路と海。(瀬戸郷1331付近)フェンス越しの街道と道標。足下に国道と線路と海。足下はかつてはもう少し海が近かったと思われる(瀬戸郷1331付近)街道。左が街道(瀬戸郷1331付近)街道。武家屋敷のように石垣が整然と並んでいる(瀬戸郷1331付近)

フェンスに設置された街道の道標を発見(正直、進行方向は分かりづらかったが)。ここで足下を見ると、すぐ下に国道・線路・海がみえる。ここはとても標高が低いため、おそらく、かつては下の海がもっと近かったのではないかと推測。
街道を左に進むと軽い上り坂、登ると、前には武家屋敷のような立派な石垣の塀がズラーっと並んでいる。

街道(瀬戸郷1381)街道(瀬戸郷1381)街道(瀬戸郷1379付近)街道(瀬戸郷1379付近)街道(瀬戸郷1394-1付近)街道(瀬戸郷1394-1付近)街道(瀬戸郷1394-1)街道(瀬戸郷1452付近)

実際に歩いてみると圧巻で、たくさん写真を撮ってしまいした。ちょっと多めに写真載せます。

街道。その下に棚田(畑)と林。見えないが国道と線路と海がある(瀬戸郷1452付近)

街道(瀬戸郷1452付近)街道(瀬戸郷1444)街道(瀬戸郷1444付近)

JR千綿駅の周辺

JR千綿駅の周辺の国道34号線、千綿郵便局近くの曲がり角から街道へ入ります。

国道34号線から長崎街道へ分岐(東彼杵郡東彼杵町駄地郷39)長崎街道沿いの昭和2年創業の老舗割烹懐石料理屋『栄喜屋』(東彼杵町駄地郷32-1)長崎薪ベースとヤマザキショップ跡地(東彼杵町駄地郷187)美容室・東京(東彼杵町駄地郷290-3)

老舗(昭和2年創業)の割烹懐石料理屋の横を通り、坂を登って行く。次に、薪・薪ストーブ販売店、ヤマザキショップ跡地、美容室と、街道らしくお店(とお店跡地)が並んでおります。

東彼杵町立千綿小学校(東彼杵町平似田郷740)長崎街道の石碑(東彼杵町平似田郷706付近)長崎街道の石碑「柴取石」とも記される(東彼杵町平似田郷706付近)街道沿いの墓地(東彼杵町平似田郷706付近)

街道沿いといえば小学校が多いですが、ここは千綿小学校。そして、よく見ると、学校の前に「長崎街道」と書かれた石碑を発見。側面には「柴取石」とも書かれています。小学校の正面には墓地。

街道沿いの製茶店「(有)まるせい酒井製茶」(東彼杵町平似田郷643-1)長崎街道の道標(看板)(東彼杵町平似田郷646-2付近)長崎街道。正面に車道が横切り、横断歩道がある。右下に「彼杵の荘」のキャラクター看板(東彼杵町平似田郷646-2)車道を越え、街道が続く。左右には田畑(平似田郷)

東彼杵はお茶がとても盛んで、街道沿いに製茶屋がありました。振り返ると長崎街道の道標が。
所々に設置されている「道の駅 彼杵の荘」のキャラクター看板が街道を賑わせています。
車道を越えて街道を進むと、左右を田畑に囲まれた道。ここからとてものどかな街道が続きます。

街道を小倉方面に振り返ると小学校がみえる(平似田郷)街道、小倉方面(平似田郷)街道、農村の民家(東彼杵町平似田郷617付近)街道から大村湾を望む。串ノ浦と建築物(東彼杵町里郷2123付近の海)がみえる(撮影者:東彼杵町平似田郷617付近)平原一里塚跡(平似田郷1157)平原一里塚跡。大村湾がみえる。かつてからこの街道は見晴らしが好かったと思われる(平似田郷1157)街道。正面に棚田がみえる(平似田郷1144-1付近)そして街道は右(西方向)へ(平似田郷1218)

大村湾がみえるのどかな街道、しばらく進むと「平原一里塚跡」を発見。とても見晴らしの良い一里塚。下り坂に入ると正面に棚田がみえてきました(写真七枚目)。東彼杵は棚田でも有名です。
そして、下り坂を下りきると小さな川・串川を橋で越えます。その橋に「長崎街道」の道標。

街道(平似田郷1218)長崎街道。串川をわたるための小さな橋(平似田郷1098付近)「長崎街道 東彼杵町」の道標(平似田郷1098付近)街道と道標。川の向こうから「東彼杵町里郷」

「長崎街道 東彼杵町」の道標がある街道(平似田郷1098付近)

橋を渡り少し進むと、街道を国道34号線が横切ります。横断歩道を使って、向こうの街道にわたります。すると石碑を発見。

街道、前方で国道34号線と交差。先の路地に街道が続く(東彼杵町里郷2197)街道を国道34号線が横切る(東彼杵町里郷2194-1)街道と「長崎街道・串島城跡入口」と書かれた石碑(東彼杵町里郷2003)「長崎街道・串島城跡入口」と書かれた石碑(東彼杵町里郷2003)

「長崎街道・串島城跡入口」と石碑に書かれています。串島城は鎌倉時代の豪族「江串三郎入道」の居城とのこと。
そのまま街道を進むと、趣のある民家と郵便ポスト。さらに進むと再び国道34号線を横切る。

街道(東彼杵町里郷2002)街道。郵便ポストがある。(東彼杵町里郷2352-1)街道が国道34号線と合流。左のゆるやかな坂を登ると国道。右側の街道は民家の玄関へ向かうが、かつての街道はこのまま真っすぐ進んでいたと推測する(東彼杵町里郷1998)街道、江ノ串橋(国道34号線)をわたると左折(東方向)する。

国道へ入ると、江ノ串橋を通って、江ノ串川を渡ります。

江ノ串橋と江ノ串川(里郷)江ノ串橋を渡り、細い路地(街道)へ進む(里郷)街道(東彼杵町里郷1844)石碑(東彼杵町里郷1844)

この川の深さで飛び石を使っていたとは想像しづらいですが、当時は橋か渡し船で川を越えていたのでしょうか。そして街道を進むと、何やら石碑を発見。

文字が読めない石碑(東彼杵町里郷1844)石碑があるが、なんの石碑かは不明(東彼杵町里郷1844)街道(東彼杵町里郷1858)街道と国道34号線の合流ポイント。奥に、分岐後の街道(左カーブの上り坂)がみえる。(東彼杵町里郷1883付近)

残念ながら、この石碑がなんのものなのかは現状分からず。。そして、街道は国道34号線と合流。しかし、すぐに分岐します。

国道34号線、先の左に分岐する坂道が長崎街道(東彼杵町里郷1886-2)国道(右)から街道(左)が分岐(東彼杵町里郷1886-2付近)国道34号線から分岐した長崎街道と道標(東彼杵町里郷1393付近)国道(左)から街道(右)が分岐(東彼杵町里郷1393付近)

国道から街道が分岐し、坂道を登ります。なお、道標も設置されています。街道の横の法面を見る限り、江戸時代に全く同じ場所を街道が走っていたかは微妙ですね(当時の技術でここを街道とするのは危険ではなかろうか)。少しずれた所を通っていた可能性も…。
そして、ここから先は街道がかなり分断されてしまっており、そのまま進むことは出来ません。

街道(東彼杵町里郷1393付近)街道(東彼杵町里郷1361)街道。かつては、正面の民家の手前で右(西方向)へ曲がり下り坂があったと推定(東彼杵町里郷1349付近)

三枚目の写真、正面に民家がありますが、かつては、この民家の手前で右(西方向)にカーブし、その先に下り坂があったのではないかと推測しています。
ということで、次の写真は、その『推定下り坂』を降りた所から。

国道(右)から街道(左)が分岐(東彼杵町里郷1348-1付近)街道。橋になっているが下は線路。かつては橋ではなかったと思われる(東彼杵町里郷1348-1付近)線路(東彼杵町里郷1337-4付近)街道(東彼杵町里郷1337付近)

一枚目、国道(右)から街道(左)が分岐します。先述の『推定下り坂』は国道の右側(東方向)に位置しますが、その距離は約50mほど。すぐ近くです。
二枚目、橋になってますが、下は線路です。かつては橋になってなかったか、地形が変わっている可能性。三枚目、立派な石垣を発見。

街道(東彼杵町里郷1337付近)街道(東彼杵町里郷1337付近)街道のすぐ足元は海、大村湾(東彼杵町里郷1337付近)街道(東彼杵町里郷700)

ホテルの裏ですが、なかなか街道感のある道です。右側(西)はすぐ足元に海があり、波の音が聞こえてきます。その音で、高低差が体に伝わり、足が震えました。

長崎街道と大村湾(東彼杵町里郷700-1付近)街道。正面の少し高い位置に国道が走っている。(東彼杵町里郷694)街道、左に国道、右に大村湾(東彼杵町里郷694)街道(左)と国道(右)が並走している。(東彼杵町里郷694付近)街道が国道と合流(東彼杵町里郷673)

海を見ながら街道を進むと、ここで再び国道と街道が合流。ここからしばらく国道を進むこととなりますが、街道は別の所(内陸側)に残っている可能性があります。ここはまた探検しに行く予定です。

国道34号線。長崎街道跡でもあるが、街道が何処を走っていたかは正確には分からない。(東彼杵町里郷673)

国道34号線にでました。街道が何処を走っていたかは正確には分かりません。が、地形と、この先の街道の位置から、ある程度の推測は出来そうです。
写真の国道の奥に『病院』と『ボートレース』の看板がみえますが、僕はその看板の付近を街道が通っていたのではないかと思っています。『ボートレース』の看板の後方(南側やや東より)に街道の続きが位置していますので、それなら真っすぐ道が繋がります。ゆる~い上り坂になっていた事は確実です。

国道34号線。奥の左側から街道が合流している。(東彼杵町里郷673)国道34号線。長崎街道跡でもある。撮影者の位置を旧街道の辺りと推定。先の二枚の看板の辺りを街道・進行方向と推定(東彼杵町里郷622付近)国道34号線の歩道。見えないが左側にボートレースの看板。その辺りに旧街道が通っていたと推測。よく見ると階段があり、上に行けるようにはなっている。(東彼杵町里郷622付近)

一枚目と二枚目、撮影者(ボク)の立ってる場所の付近が街道だったのではと推定。三枚目の時点では旧街道は既に(左側の高い所に)離れてしまってると思います。(よく見ると階段で上に行けるようになっていますが、今回は控えました。汗)
次の写真は街道の少し先を先回りした所から。

旧街道。路地の右下に色褪せた長崎街道の道標(東彼杵町里郷570-1)旧長崎街道の道標。きわめて色褪せていたため、文字が読めるように加工している(東彼杵町里郷570-1付近)

とても色褪せた長崎街道の道標を発見。近所の方の話を聞けたのですが、この辺りは忘れられ気味で、旅人もスルーしていく人が多いそうです。

旧長崎街道と右下に街道の道標。しかし、旧街道は正面・右側の下り坂を進む。(東彼杵町里郷557付近)

右下(オレンジの柱の下)に街道の道標。しかし、旧街道は正面・右側の下り坂を進む。
右の細い路地を進むと再び国道に出るが、これは旅人を導く順路のよう。あくまで、かつての旧街道は正面・右側の下り坂。そして、その先は危険で進めない程に荒廃している。

左下に街道の道標。実際の街道は左だが、現在の旅人はこの道を行く人が多い。奥の海に「鹿ノ島」がみえるが、その付近に旧街道が通っており、街道そのものも映っているが、遠すぎて分かりづらい。(東彼杵町里郷557付近)旧街道の下り坂。この先右折だが、そこから先は荒廃している(東彼杵町里郷557付近)旧街道。奥の橋を渡って先を進むが、その先は不明瞭で、近所の方も分からないとのこと。(東彼杵町里郷557付近)

三枚目、右奥に小さな橋が見えますが、この橋を渡って先に進むと、ご近所の方に聞きました。ただ、その先は自分も分からないとのこと。

今回はここまでとします。

コメント

タイトルとURLをコピーしました