東彼杵~長崎街道沿いの癒しの景観
長崎街道めぐり、次は『東彼杵町』です。長崎県内の長崎街道がとおる地としては最北部となり、ここを東に行くと嬉野(小倉方面)、南に行くと大村(長崎方面)となります。東彼杵の長崎街道はとても心癒される景観が多いです。
東彼杵町については下の引用文をご覧ください。
東彼杵町の沿革。東彼杵町は昭和34年5月、彼杵町と千綿村との合併によって誕生しました。長崎県のほぼ中央部に位置し、人、産物、情報が集まる玄関口として知られています。基幹産業は県内荒茶生産量の約6割を占め、何度も日本一に輝いた「そのぎ茶」をはじめとする農業。温暖な気候と多良山系の山々が美しい自然を育み、いちごやみかん、アスパラ、肉用牛なども生産されています。また、古くから街道が交わる交通の要衝。長崎、佐世保両市まで約1時間で結ぶJR大村線が運行し、国道は町内を南北に縦断。長崎自動車道の東そのぎインターチェンジもあります。小高い丘一面に広がる茶畑の柔らかな緑、時間ごとにその表情を変える大村湾の紺碧、山海を暖かなオレンジ色に染め上げる夕日。日々の暮らしの中でふとした安息を感じられる景観は、訪れた人々に癒しを与えてくれます。オンリーワンの景観を活かした癒しのツーリズムで、東彼杵町は“一流の田舎”を目指しています。(道の駅・彼杵の荘 案内板より)
“一流の田舎”というワードはとても好いですね。実際、東彼杵町は、とても好いモノが一カ所にひしめき合ってる街だと思います。
彼杵駅付近
今回はJR彼杵駅近くの国道205号線より街道に入ります。すると、さっそく商店街が。
活気のある商店街
街道沿いの商店街はシャッター街と化してる場合が多いですが、ここ彼杵駅最寄の商店街はとても活気に溢れています。史跡だけではなく、米屋・寿司屋・酒店・製茶屋など、街道らしいお店が現在もたくさん営まれています。
ここで神社を発見。「彼杵神社」です。
彼杵宿本陣跡~彼杵神社
本陣・御茶屋跡です。そして、現在は神社となっております。桜が見事です。(二枚目の案内板の写真は読めるように加工しているので、色がおかしなことになってますが、ご勘弁を)
彼杵御茶屋(本陣)。江戸時代の初期、幕府の命により街道の整備が行われた。寛永10年(1633年)幕府巡見使の視察に併せ、472坪(約1560㎡)の敷地に五棟が建築され、長崎街道彼杵宿の本陣(宿泊所)として幕府の要人・大名等が利用した。明治13年(1880年)、この本陣跡に彼杵神社が遷座された。(案内板より引用)
主祭神はかの有名なスサノオノミコトだそうです。
◇ご由緒(歴史)。当神社は、主祭神・健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)をはじめ、相殿に五柱の神々をお祀りする社である。創建時代は不詳であるが、元・熊野十二社権現あるいは熊野神社と社名を称え、その社伝によると、往時 真言宗安全寺が今の蔵本郷島田の浜宮近くに建立され、この彼杵の地名の起源ともされているところの大きな杵がこの安全寺の上に天降り、この杵をもって十二社権現の御神像と阿弥陀如来の仏像を彫刻して祀ったのが始りと伝えられている。その後、時代を経て天正二年(一五七四年) キリスト教徒の暴動により領内の神社仏閣はことごとく破壊され、当社もその災いにかかり衰退していたが、正保三年(一六四六年)再建、更に元禄九年(一六九六年)再営された。それからのち、彼杵総鎮守の氏神様として今まで以上の崇敬を集め明治七年郷社に列せられた。同年滝川内鎮座の貴船神社を合祀、翌八年口木田郷鎮座の諏訪神社を合祀。明治十三年には社殿を現在地(幕藩時代 彼杵本陣跡地)に遷し、菅無田郷鎮座の天満宮を合祀、社名を彼杵神社と改称した。(案内板より引用)
そして、先へ行くと彼杵名物のお茶のお店があり、その先には、脇本陣跡。その正面に何やら趣のある門があります。
赤レンガ門~銀行変遷の歴史遺構
親和銀行彼杵支店の赤レンガ門とのこと。見事なほど、門だけがそこに残されてありました。案内板に古写真が掲載されています。
赤レンガ門の由来。親和銀行彼杵支店は、遠く明治30年、9月30日設立された福竹銀行(竹松村356)を発祥として、明治39年6月27日、彼杵銀行(彼杵村590)と改称 大正8年7月25日 現在地へ移転(彼杵村蔵本郷1878) 以後、時代とともに幾多の変遷を経て、昭和16年4月1日、親和銀行彼杵支店として、今日までに至っています。この赤レンガは当時より通用門として使用され、当町の銀行変遷を偲ぶ遺構として、現在も町民の方に親しまれています。平成9年4月創業100周年問記念事業 親和銀行彼杵支店長(案内板より引用)
彼杵宿脇本陣跡
脇本陣跡地。案内板にこの彼杵宿を通った知名人が記されています。気になったのは、なぜ坂本龍馬や勝海舟が含まれていないのか、です。
脇本陣。当地で商業を営んでいた森家の一部を、本陣の補助的な旅館として利用されていたが、宝暦2年(1752年)に改築され、脇本陣に指定して上級武士の宿泊所として利用した。広瀬淡窓(ひろせたんそう)は長崎大村藩に招かれ「彼杵」を訪れた時、脇本陣に宿をとりました。広瀬淡窓 天明2年(1782)~安政3年(1856) 大分県日田市に生まれ儒学者
長崎街道彼杵宿を通った知名人、シーボルト(南館医師)、ケンペル(南館医師)、ツンベルグ(南館医師)、ズーフ(南館長)、フィッセル(東インド会社)、長久保赤水(地学者)、蝶夢(俳人)、古川古松軒(地理学者)、司馬江漢(絵師)、長月庵暑翁(俳人)、菱屋平八(筑紫紀行著者)、伊能忠敬(測量技師)、野田成亮(修験僧)、頼山陽(儒学者)、広瀬淡窓(儒学者)、吉田松陰(儒学者) (案内板より引用)
商店街がつづく
本当に味わい深い街道の商店街で、撮った写真を全部載せてしまいたくなります。
元禄船着場跡~旧彼杵港
街道の奥にある旧彼杵港、小さい港です(写真には写ってませんが、右(北西方向)に大きな港があります)。奥に八坂神社が映ってますが、残念ながら今回は工事のために行けず。案内板にある絵画は必見です。
元禄船着場跡。元禄年間に築港された彼杵港は、石段で築かれた舟の乗り降り場です。長崎街道の往来がひんぱんであった江戸時代から明治にかけては、長崎からの商品や各地の産物を始め、五島近海で捕れた鯨もこの港に荷揚げされた後、九州各地に運ばれ、彼杵宿はたいへん繁栄しました。オランダ商館医ケンペルもこの海路を利用しています。その当時の船賃、そのぎ~時津間は1人(約140文・・1文は現代の約18円)(案内板より引用)
旧彼杵港から街道へ戻ります。
再び街道へ
本町万部塔
案内板に古写真が掲載されてますので必見。
本町万部塔。江戸時代の初頭、キリスト教の追放が強化され、大村藩内仏教に改宗が進められた。明暦3年(1657年)、現在の大村市内で多数の隠れキリシタンが発見された「郡崩れ」があったので、長崎街道沿いや集落の中に仏教徒の証として寛文4年(1664年)に十五基の宝塔が建立されたのも一つである。(案内板より引用)
ここから街道を外れ、右に行くと「日本二十六聖人 乗船場跡」があります。
日本二十六聖人 乗船場跡
キリシタン関連の史跡です。処刑されたキリシタン26人がこの場所から舟に乗せられ刑場へ送られたとのこと。とても悲しい歴史ですね。このような優しい空気の場所でそのようなことが行われたと、現地では到底、思いもしませんでした。
日本二十六聖人乗船場跡
日本二十六聖人、それは、西暦1597年(慶長2年)2月、長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒であるという理由で処刑された、日本最初の殉教者である。
スペイン人のフランシスコ会司祭ペトロ・バウチスタはマニラで布教ののち、フィリピン総督の使節として1593年来日、肥前名護屋の朝鮮陣本営で豊臣秀吉と会見するなど日比通商条約締結に努力したが、サン・フェリベ号入港事件を契機とする、豊臣秀吉のキリスト教禁教令の強化により、京都、大阪のキリシタンとともに捕えられた。
豊臣秀吉は、殉教者達を厳しく罰することで人々へのみせしめにしようと陸路を徒歩で、或は馬で、1日約7~8里とゆっくり歩かせた。
1月9日、堺を立った24人のキリスト教信者達は、堺、姫路、岡山、広島を通り、1月31日博多に到着、翌日、肥前名護屋近くの村、山本で捕われ人は26人となり長崎へと進んだ。やがて、苦しい登りの道を越えて大村領の俵坂峠にたどり着くと、足もとに湖のような静かな大村湾の素晴しい景色が広がっていた。
そこで休息したペトロ・バウチスタは、岩の上に腰をおろして黙想した。今・・・・・・死地へ向かって進んでいる。しかし自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それを継ぐべき同僚までも共に死んでいく。ペトロ・バウチスタがすべてを捧げた仕事は、がらがらと崩壊していくかに思われ、とめどもなく涙が落ちた。
昼を少し過ぎたころ、殉教者達は彼杵へはいった。
やがて、殉教者のうちフランシスコ会士以外は皆手を縛られ、彼杵の浜辺に降りると、そこには三艘の船が繋いであった。それぞれの船に乗船させられた殉教者達は、水路時津へと向かった。空には、残月が光り始め、岸のあちこちに漁村の灯火がまたたき、舟は、単調な櫓の音を響かせながら、静かに水面を分けていった。翌2月5日、26人の殉教者達は、長崎西坂の地で処刑された。
1862年6月7日、荘厳な祭典のうちに教皇ピオ九世は、西坂の26人の殉教者を聖者の列に入れた。
この日本二十六聖人乗船場跡記念碑は、この殉教者の残した足跡を記念するため、1986年、多くの人々の協力で建設されたものです。東彼杵町
(案内板より引用)
街道へ戻り、次へ進みます。
下川橋で彼杵川をわたる
丈夫な橋で彼杵川を渡ります。北を見ると飛び石が見えます。ちょっと広めの川ですが、飛び石で渡れるほどの深さなのですね。
もう一つの「日本二十六聖人乗船場跡の碑」
先ほど、川を越える前に海の近くで立ち寄った「日本二十六聖人乗船場跡の碑」がこちら(東町公民館)にもありました。こちらは木製の碑ですが「河口右岸松林」の一文が追加されています。(保管目的で置かれてるだけだったら申し訳ない)
一本松一里塚跡
ここで一里塚を発見!「一本松一里塚跡」です。と言いたいのですが、なんと見落としてしまい、写真を取り逃がしてしまいました。ということで、こちら→ストリートビュー(一本松一里塚跡)をご覧ください。
人里を離れ、街道は静かになっていく
そして、名もなき小さな川を越えると、畑や空き地が目立ってきました。
街道と踏切が交差します。これはとても絵になります。
踏切を越え、再び名もなき小さな川を越え、人里離れた空間へと街道は進む。
国道を横切り、街道は上り坂へ
ここで「長崎街道 東彼杵町」の道標を発見。そして、国道34号線を横切ると、街道は上り坂を進むこととなります。ここから先、アップダウンは多少きついですが、とてものどかで、街道感あふれる道が待っています。
写真一枚目、街道の上り坂。左側の擁壁はかつては石垣だったのだろうか。二枚目、小倉方面へ旧街道を振り返る。三枚目、さらに坂を登ると、擁壁の上に畑と思わしき荒れ地。小さな石垣があるが、擁壁と繋がっている(一枚目の擁壁も石垣だったのでは、という根拠がこれ)。四枚目、大村湾を一望できる。
小さな神様を発見
後ろを見ると海がキレイですが、前を見ると、木々が生い茂り、道の先を目では見付けられない。そして、小さな祠を発見。祠の中にはお供え物がしてあり、「水」と書かれた仏が見えます(写真は文字が読めるように加工してあります)。「八百万の神」といいますが、本当、至る所に神様がいますね。軽くご挨拶だけさせて頂きました。
坂を登りきると、澄んだ下り坂が顔を出す
介護施設の横を通り、上り坂を登りきると、次は下り坂。下り坂は比較的、人工物が少ない、落ち着いたようすを残す。これで地面がアスファルトでなく、道幅がもう少し狭かったら完璧な街道。
とても好い風景だったので、写真を多めに載せます。
木々に覆われ先が見えない街道が、とても桜がキレイな下り坂。進むうちに視界が晴れ、大村湾と東彼杵の棚田が見えてくる。ふと右を見ると、草むらに「長崎街道」と書かれた道標を発見。道を間違えてないことに一安心。
坂を下りきると、国道34号線を横切る。ここで、いま 来た道を振り返ってみて、かつて街道だけが通っていた時の地形を想像してみると楽しい(四枚目)。
千綿宿周辺
千綿宿、および、その周辺にやって来ました。なお、千綿宿には特に本陣跡などはありません。が、街道感あふれる“道”がしっかり残っております。
街道は踏切を越え、町の中へ。
ここはとても海が近い。というか標高が低い。よくこんな所に街道を走らせたものだと驚く。
供養塔のような石の塔を発見。すぐ近くには「牛ノ頭壺日審上人霊場」がある。その遺構の一部だろうか。
「長崎街道 牛ノ頭壺日審上人霊場」と石碑に記されています。とくに案内版などは設置されていない為、歴史などは確認できず。祠の内部を見ると、お供え物・花などからとても大切にされている様子がうかがえる。
旧土肥家
江戸時代から明治初期の豪商・大浦慶の商家です。
ここ土肥家は、長崎街道の宿場町として商工業が栄えた[千綿宿]の商家で江戸時代から回船業を営み、日本茶輸出の先駆者である長崎の豪商・大浦慶のお茶や農産物の出荷をしていた。また、この家は、明治末期に建てられたもので、格子戸や白壁の建築様式からは、その時の繁栄と風かく格が感じられます。現在、岡田家が引き継ぎ、貴重な歴史的な建造物として保存継承しています。-大浦慶(1826~1884)について。茶の輸出の創始者・明治維新を支えた女傑。お慶は安政三年(1856)イギリス商人オルトと茶の輸出契約を結び、安政六年(1859)釜炒り茶1万斤(6トン)を輸出し、古い伝統を持つそのぎ茶も海外に出ていきました。お茶の貿易で巨万の富をえたお慶は幕末の志士(坂本龍馬、大隈重信他)にも大金を貸したという逸話も残っています。(案内板より引用)
千綿宿の周辺。シャッター街と化してはいますが、かつて商店街が賑わっていた頃のようすを伺させる、とても味わい深い街並みです。
小さな川をこえると八反田郷へ
小さな川をこえると八反田郷となります。営業中の理容室を発見。理容室は時代の変化にとても強い業種ですね。
そして、次に、橋をつかって千綿川をこえます。そちらは大きな川。
(向こう岸に行ってから、どうやら道を間違えしてしまったようです。一部、写真を取り逃がしてしまいました)
まずは、橋をわたります。(一・二・三枚目)、
次に、写真四枚目。本来の街道は左に行ってました。現在は、右から回り込む(左が行き止まりなので)、が順路のようです(しかし、僕は右にしか行っておらず、左の写真を撮ってませんでした)。左に直進して、さらに「右折」すると、下の一枚目の場所に“かつては”たどり付きました。(現在は国道と線路に塞がれて、迂回しなければ行けない)
龍頭泉道の石碑
一枚目、本来の街道(正面のT字路を左折すると、先述四枚目の写真に“かつては”たどり付いた。)。二枚目、龍頭泉道の石碑(二・三枚目)、そこから少し進んで振り向くと、一枚目と三枚目の道がきれいに道が繋がって見えます。(四枚目)
龍頭泉道の石碑よりまっすぐ進むと、のどかな農村の中を街道は進む。少し進むと、街道の道標を発見。その道標のすぐ傍の石垣がとても立派。写真では伝わりにくいが、石の一つ一つがすごく大きい。
「六地蔵」と「千部塔」があります。傘つきのものが六地蔵、板碑が千部塔です。六地蔵はよく見ると上部に複数の地蔵がついてます。
街道を横切る、味のある細い小川(というか水路)をパシャリ。(三枚目)
そして、ここからはさらに街道らしくなっていきます。
車が通るには苦労しそうな細い道。右は崖に近い地形で、傍に海がみえる。
フェンスに設置された街道の道標を発見(正直、進行方向は分かりづらかったが)。ここで足下を見ると、すぐ下に国道・線路・海がみえる。ここはとても標高が低いため、おそらく、かつては下の海がもっと近かったのではないかと推測。
街道を左に進むと軽い上り坂、登ると、前には武家屋敷のような立派な石垣の塀がズラーっと並んでいる。
実際に歩いてみると圧巻で、たくさん写真を撮ってしまいした。ちょっと多めに写真載せます。
JR千綿駅の周辺
JR千綿駅の周辺の国道34号線、千綿郵便局近くの曲がり角から街道へ入ります。
老舗(昭和2年創業)の割烹懐石料理屋の横を通り、坂を登って行く。次に、薪・薪ストーブ販売店、ヤマザキショップ跡地、美容室と、街道らしくお店(とお店跡地)が並んでおります。
街道沿いといえば小学校が多いですが、ここは千綿小学校。そして、よく見ると、学校の前に「長崎街道」と書かれた石碑を発見。側面には「柴取石」とも書かれています。小学校の正面には墓地。
東彼杵はお茶がとても盛んで、街道沿いに製茶屋がありました。振り返ると長崎街道の道標が。
所々に設置されている「道の駅 彼杵の荘」のキャラクター看板が街道を賑わせています。
車道を越えて街道を進むと、左右を田畑に囲まれた道。ここからとてものどかな街道が続きます。
大村湾がみえるのどかな街道、しばらく進むと「平原一里塚跡」を発見。とても見晴らしの良い一里塚。下り坂に入ると正面に棚田がみえてきました(写真七枚目)。東彼杵は棚田でも有名です。
そして、下り坂を下りきると小さな川・串川を橋で越えます。その橋に「長崎街道」の道標。
橋を渡り少し進むと、街道を国道34号線が横切ります。横断歩道を使って、向こうの街道にわたります。すると石碑を発見。
「長崎街道・串島城跡入口」と石碑に書かれています。串島城は鎌倉時代の豪族「江串三郎入道」の居城とのこと。
そのまま街道を進むと、趣のある民家と郵便ポスト。さらに進むと再び国道34号線を横切る。
国道へ入ると、江ノ串橋を通って、江ノ串川を渡ります。
この川の深さで飛び石を使っていたとは想像しづらいですが、当時は橋か渡し船で川を越えていたのでしょうか。そして街道を進むと、何やら石碑を発見。
残念ながら、この石碑がなんのものなのかは現状分からず。。そして、街道は国道34号線と合流。しかし、すぐに分岐します。
国道から街道が分岐し、坂道を登ります。なお、道標も設置されています。街道の横の法面を見る限り、江戸時代に全く同じ場所を街道が走っていたかは微妙ですね(当時の技術でここを街道とするのは危険ではなかろうか)。少しずれた所を通っていた可能性も…。
そして、ここから先は街道がかなり分断されてしまっており、そのまま進むことは出来ません。
三枚目の写真、正面に民家がありますが、かつては、この民家の手前で右(西方向)にカーブし、その先に下り坂があったのではないかと推測しています。
ということで、次の写真は、その『推定下り坂』を降りた所から。
一枚目、国道(右)から街道(左)が分岐します。先述の『推定下り坂』は国道の右側(東方向)に位置しますが、その距離は約50mほど。すぐ近くです。
二枚目、橋になってますが、下は線路です。かつては橋になってなかったか、地形が変わっている可能性。三枚目、立派な石垣を発見。
ホテルの裏ですが、なかなか街道感のある道です。右側(西)はすぐ足元に海があり、波の音が聞こえてきます。その音で、高低差が体に伝わり、足が震えました。
海を見ながら街道を進むと、ここで再び国道と街道が合流。ここからしばらく国道を進むこととなりますが、街道は別の所(内陸側)に残っている可能性があります。ここはまた探検しに行く予定です。
国道34号線にでました。街道が何処を走っていたかは正確には分かりません。が、地形と、この先の街道の位置から、ある程度の推測は出来そうです。
写真の国道の奥に『病院』と『ボートレース』の看板がみえますが、僕はその看板の付近を街道が通っていたのではないかと思っています。『ボートレース』の看板の後方(南側やや東より)に街道の続きが位置していますので、それなら真っすぐ道が繋がります。ゆる~い上り坂になっていた事は確実です。
一枚目と二枚目、撮影者(ボク)の立ってる場所の付近が街道だったのではと推定。三枚目の時点では旧街道は既に(左側の高い所に)離れてしまってると思います。(よく見ると階段で上に行けるようになっていますが、今回は控えました。汗)
次の写真は街道の少し先を先回りした所から。
とても色褪せた長崎街道の道標を発見。近所の方の話を聞けたのですが、この辺りは忘れられ気味で、旅人もスルーしていく人が多いそうです。
右下(オレンジの柱の下)に街道の道標。しかし、旧街道は正面・右側の下り坂を進む。
右の細い路地を進むと再び国道に出るが、これは旅人を導く順路のよう。あくまで、かつての旧街道は正面・右側の下り坂。そして、その先は危険で進めない程に荒廃している。
三枚目、右奥に小さな橋が見えますが、この橋を渡って先に進むと、ご近所の方に聞きました。ただ、その先は自分も分からないとのこと。
今回はここまでとします。






























































































































































































































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