長崎街道を自分の足で歩いて見て回る「長崎街道めぐり」を始めます。計画自体はずっと昔からあり、ちょくちょくあちこちの長崎街道を見て回ってはいたのですが、今回から、ブログで記事としてまとめてレポートしていきます。
長崎街道といっても、もちろん、とても広く長いです。その長~い長崎街道を一度で小倉から長崎まで歩いてレポートするわけではありません。(苦笑)
これから数年、あるいは十数年の時間をかけて、このブログにて長崎街道のすべての道のりを数十回に分けてレポートする、という(僕の中では)壮大な計画です。
県道116号線の歩道橋から出発
今回は、いきなり「終点・長崎奉行所」を目指し、ちょうど日見峠を越した場所からスタートします。
この細い急な坂の先が小倉方面、日見峠となります。が、今回はここから反転(左を目指)し、長崎方面を目指します。
二枚目の写真の、左の道路が県道116号線、右の細い道が旧長崎街道です。両道は実はけっこう近くを通っていますが、街道のほうはしばらくは川の近くで急勾配な道が続きます
坂を下って行きます。見えませんが県道116号もちゃんと左側(写真の外)を走っています。やがて街道の右側に小さな川が現れますが、ちゃんとレールが設置してあるので安心です。
左の崖側が苔むしており、年月の経過を伺わせます。ここで階段が現れますが、足元注意、ということでしょうか。素直に階段を歩きました。
ここで、下ってきた階段を振り返ってみてみる。階段しか道がないように見えてしまいますが、ちゃんと、向かって右側にも(階段ではない)道が広がっています。ただ、伸びてきた雑草に覆われてしまい、見えづらいだけです。
ここで長崎街道の案内板登場で一安心。上を見るとちゃんと県道116号線も走っています(写真3枚目)。
この道は、現代でこそコンクリートでしっかり舗装してあるので安心して歩けますが、江戸時代はなかなかに危険な道だったと思われます…。(長崎はまったく水害に強い土地柄などではないですし)
しかし、少し下ると近くには住宅地が続きます。
右側フェンスの向こう、先ほどが川がありましたが、今は水源地があり、やがてダムが顔を現します。(変わらず、左側には県道116号線が走っています)
明治24年(1891年)に完成した本河内高部ダムです。「高部」とあるように、高部と「低部」の二つのダムが続いています。
ダム付近、街道がどこか分かりづらい
このダム建設の際にこの地域の地形は大きく影響も受けたようで、長崎街道もその例外ではないようです。長崎街道は、明治15年(1882)に開通した「明治新道」と、江戸時代には既に存在した「(旧)長崎街道」の二手に分かれていますが(いま僕が歩いてるのは旧長崎街道)、明治新道・旧街道の一部が現在ではダムの底に沈んでいるとのこと。
ゆえに「おそらくこの辺を街道がとおっていたはずだ」という推測が必要となります。
やがて長崎街道は国道34号線と県道116号線と合流する。実を言いますと、わたくし、この辺りは街道を正確に把握できておりません…。
本河内高部ダムの脇道(旧街道)をとおって行くとやがて34号線と合流し、そこには「長崎街道」の案内版も設置されておりますが、そこは「明治新道」の方ではないかと疑っております。(上写真の5~6枚目)※①
その途中、34号線との立体交差点の部分に旧街道から登り階段がありますが、その階段の脇にお墓があります。ひょっとしたら、そっちが旧街道ではなかろうかと…。(上写真の3~4枚目)
後日また訪れて、再探検してみます。
いずれにせよ、次は下の写真の道で間違いないと思います。
国道34号線「番所」バス停の裏側(南側)の道へ入ると、長崎街道の案内板があります。このまま進むと、また旧街道らしい細く急勾配の道が現れます
写真2枚目の、案内板の左側の細い道が旧長崎街道です。
すごく細い道でした。旧街道はともかく苔むしてることが多いのですぐわかりますね。また、写真では分かりにくいですが、上の4枚目の写真のお墓のところにちゃんと案内板が立ってます。(明らかに一般の方のお墓の中に案内板があったので撮影は控えました)
しばらく細い道(旧街道)を通ると、地下歩道が見えてきます。この地下歩道も旧街道の一部のようです。また、分かりにくいですが、一枚目にも長崎街道の案内板が立っています
地下歩道を抜けて、34号線の真下(地下)を通り、蛍茶屋跡地側へわたる。
一の瀬口 蛍茶屋跡。文化文政(1804~1829)ごろ、甲斐田市左衛門によってこの地に旅人歓送迎の茶屋が始められました。幕末から明治初期。2代目政吉のころが盛期でした。蛍の名所だったので、蛍茶屋と呼ばれました。長崎から矢上への街道筋、一の瀬橋のたもとにありました。(案内板より引用)
一の瀬橋と蛍茶屋跡地。ここを抜けると二手に分かれる。今回は奉行所を目指すため、最終的に西側(蛍茶屋駅の方向、写真3枚めの直線道)を目指すことになる。
が、その前に寄り道して東側(写真4枚めの左側の道)にも行ってみる。東側も実は長崎街道で、明治時代(1882年:明治15年)に整備された「明治新道」とのこと。明治新道は本河内低部ダムで行き止まりとなっているが、その先は街道がダムの底に沈んでしまっているため、行き止まりとなります。
上写真4枚め、行き止まりとなっています。さらにその奥に低部ダムがありますが、本来であれば、そのダムの底にこの街道が続いており、やがてはその先の街道に合流するはずです。
さて、ここから、いま来た道を戻り、今度こそ奉行所を目指そう。
旧長崎街道の案内板。“旧”とあるので、これは明治新道ではなく、旧長崎街道のことでしょう。先ほどの分かれ道(明治新道)については、道の存在は示してあるも、行き先はボカしてあります。(長崎平和ライオンズクラブ制作)
蛍茶屋駅前の「食違」を進む
長崎市中川2丁目、一の瀬橋を抜けて商店街が、そして、蛍茶屋駅前の通りを目指す。ここの通りはかつてはもっと賑わっていたのだろう。
中川2丁目、蛍茶屋駅前の通りから街道は右折、「食違」の階段を上ります
食違(くいちがい)。江戸時代、旧長崎街道は桜馬場周辺から古橋を渡り、中川八幡神社の参道と交差してさらに進み、この辺りで突き当たりになって、ほぼ直角に道が曲がって、この下の道へと通じていました。以前は、このような道の形態から「食違」と呼ばれ、享和2年(1802)の古地図 (肥前長崎図)にも「クイチガイ」と記載されています。(案内板より引用)
中川八幡神社。正保3年(1646)、幕府の命で長崎に滞在していた豊後府内(現:大分市)の城主が自国の柞原八幡宮を勧請し、開かれました。創建当時は聖福寺の寺域内(現:筑後町)にありましたが、寛延元年(1748)現在地に移転しました。この神社の参道は、旧長崎街道に面しており、旧市街の玄関口にあたっていました。明治14年(1881)に国道が新設されたことに伴い、大正11年(1922)石段と鳥居一基を新設し、参拝口を国道に接するに至りました。祭神は息長足姫尊(神宮皇后)、誉田別尊(応神天皇)、武内宿禰命で三神ともに武道の神です。毎年9月15日には秋の大祭として、子ども相撲大会や奉納おどりが催されており、境内には、長崎奉行が寄進した石燈篭や当時の寺社奉行が寄進した御手水が現存しています。(案内板より引用)(長崎県長崎市中川2丁目8)
長崎市中川2丁目の交差点、ここはまっすぐ進めず、いったん左に迂回してから車道を渡る必要があります。(一枚目のガードレールのところに立って、二枚目の写真を撮っています。二枚目の右下に僕の影が映ってます)
二枚目の道を先に進むと、下の画像の「古橋(中川橋)」がみえてきます。
市指定有形文化財 古橋(中川橋)。鳴滝川に架かるこの石橋は、旧長崎街道に位置し、桜馬場から一の瀬(現:蛍茶屋)に通ずる唯一の橋で、長崎の玄関口にあたっていました。承応3年(1654)、唐大通事の林守壁が私費を投じて架けたもので、眼鏡橋から数えて6番目に架けられた石橋です。崩流の記録はありませんが、現在は勾欄や親柱等をそのまま埋め込んで、約1mかさ上げがしてあります。全長7.6m、幅2.8mで、この水系最小の石橋ですが、側壁石の工法に特徴があり、布石部分の加工に入念な仕事ぶりを見ることができます。以前は中川橋と呼ばれていましたが、大正7年(1918)約30m下流に新しく中川橋が架かり、この橋は古橋と呼ばれるようになりました。(案内板より引用)
注意して見ないとここに橋があると気づけそうもない古橋。まさしく、縁の下の力持ち、ですね。
一の瀬口番所。長崎街道は小倉に至る全長57里(約228km)の道のりで、九州では第一の脇往還(江戸時代の五街道以外の主要街道)でした。当時、この近辺には2本の杉があり、長崎街道への入口の一つと数えられ、夜間には治安維持のため木戸が閉められたそうです。肥前長崎図(享和2年(1802))によれば、この2本の杉は「夫婦杉」と記されており、現在の夫婦川町の由来のひとつとも言われています。なお、地元の古老の話によれば、旧長崎村庄屋跡(現在の桜馬場中学校)付近に2本の樟(夫婦樟)があったとされています。 (案内板より引用)
一の瀬口番所を抜けると、次は「シーボルト通り」と合流します。なお、番所とは、警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設、だそうです。(Wikipediaより)
シーボルト通りと長崎街道が合流
シーボルト通りと長崎街道の合流点(分岐点)。この道をまっすぐ行くとシーボルト記念館があります
長崎甚左衛門純景居館跡。長崎氏は、古くからこの地を支配した領主で現在の桜馬場中学校の場所に居館を構えていました。この地を中心に小規模ながら町を形成していたといわれています。長崎氏の第14代である長崎甚左衛門純景は、日本初のキリシタン大名・大村純忠の重臣であり、純忠の娘を妻とし、自らもキリスト教に改宗しました。永禄12年(1569)には現在の春徳寺の場所に長崎最初の教会であるトードス・オス・サントス教会が建てられました。なお、長崎甚左衛門純景の長崎退去に伴い、慶長10年(1605)森田彦右衛門が長崎村の初代庄屋となり、以後約270年間、代々庄屋として貢献してきました。(案内板より引用)
街道上に位置する桜馬場中学校、その塀にはとても立派な石垣が使われています。向かい側には、明治10年創業の和菓子店 いしだや万寿庵
坂本龍馬と長崎街道。坂本龍馬(1836~1867 高知県生まれ)が初めて長崎にやって来たのは、元治元年(1865)2月23日のことです。師である勝海舟(当時、幕府軍艦奉行並)の長崎出張に同行してのことでした。勝海舟の日記によれば、前日の22日に会津(雲仙市愛野町)に宿泊した一行は、23日に長崎街道を通って日見峠を越え長崎入りしました。宿泊先は、筑後町の福済寺でした。長崎では、長崎奉行所や長崎製鉄所、大浦居留地の外国領事館等を訪ねています。また、宿で海舟と龍馬は相撲をとったとも伝わっています。そして4月4日に長崎を発ち、矢上で昼食をとり、帰途についたとされています。(案内板より引用)
とても街道らしい整然とした佇まい。街道の案内版も風情に溶け込んでいます
長崎街道ここに始まるの石碑
ラクダも歩いた長崎街道。長崎街道は小倉に至る全長57里(約228km)の道のりで、江戸時代、九州唯一の脇往還(脇街道)でした。江戸参府の際には、多くの人で賑わい、オランダ商館長や商館医・シーボルトなどが往来したほか、幕末頃には坂本龍馬や吉田松陰など多くの名士がこの道を通り長崎へ訪れました。長崎街道は、長崎から各地へ様々な西洋の物や技術、文化を運ぶ重要な街道で、当時、高価だった砂糖もこの道を経由して江戸などへ運ばれ、「シュガーロード」と呼ばれていました。また、南蛮渡来の珍獣といわれた象やラクダも長崎に上陸し、江戸などへ上りました。文政4年(1821)上陸したオスとメスのラクダはおしどりのように寄り添い歩いたそうで、夫婦揃って道中などをすることを「ラクダのミュート(夫婦)」と呼ぶようになったというエピソードも伝えられています。(案内板より引用)
「長崎街道ここに始まるの石碑」が現れました。小倉方面から見ると、ここが長崎街道の終点でもありますね。とはいっても、最終目的地は長崎奉行所。ここからさらに、シーボルト通りを進みます。
ここから少し寄り道します。
諏訪神社をちょっとだけ拝ませていただきました。
次に、すぐ近くの出来大工町「福澤先生が使っていたと伝わる井戸」を訪れました。なかなかロマンがありますね。ただ、実際には町民たちの共同井戸であったようです。
福沢諭吉(1835~1901 大坂(中津藩蔵屋敷)生まれ)。安政元年(1854)19歳の時来崎し、中津藩家老の子・奥平壱岐の世話で、この光永寺に一時寄宿し、その後、出来大工町にあった高島秋帆門下の砲術家・山本物次郎の家に移り、長崎で約1年間蘭学を学びました。現在も福沢諭吉が使用したといわれる井戸が出来大工町の一画に残っています。福沢諭吉はこの井戸を使用していたといわれ、安政の大地震の際ちょうど水を汲んでいて危うく井戸の中に落ちそうになったことを「福翁自伝」に書き残しています。(案内板より引用、一部省略)
細い路地を抜けて、最後に階段を上ると、奉行所前通りへ
真正面にT字路がありますが、そのT字路のど真ん中に先ほどの階段があり、そこから登って来ています。 なお、右手に「サント・ドミンゴ教会跡」があります。
そして、ついに「終点・長崎奉行所」へ到着しました。
ここまで見てくれてありがとうございました。










































































































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