大村市-長崎街道めぐり

旧松屋旅館(松原本町) 長崎

長崎街道めぐり、今回は「大村市」を散策します。長崎県大村市は全国的には知名度低めの街ではありますが、長崎県内では「空港のあるところ」として深く認知されています。
その大村市にも長崎街道は通っており「大村街道」とも呼ばれています。
大村街道といえば「鍛冶の町 松原宿」と「本陣のある大村宿」と二つの宿場がありましたが、その二か所とその近辺には、現在でも“街道らしい”街並みが残っています。
今回は長崎県大村市松原2丁目の国道34号線から分岐する長崎街道からスタートします。

松原宿をめざし海沿いを進む

国道34号線と長崎街道(大村市松原2丁目) 長崎街道(大村市松原2丁目)

国道34号線(左写真)から旧長崎街道へ分岐しています(右写真)。この分岐から松原宿へ進みますが、しばらく右手側に海が広がっています。

大村市松原2丁目、線路近く 大村市松原2丁目、海辺の民家 大村湾と東彼杵&川棚町、ノゲシの花

左側の雑草に覆われた壁に「長崎街道」の案内板があります。海辺に民家が並んでいますが、きっと江戸時代にはこの風情が出来上がっていたのでしょう。右手側には大村湾が見え、その先(北方)に東彼杵と川棚の町が見えます。黄色い花はノゲシ(野芥子)です。

私有地の神社「佐屋の御前」

「佐屋の御前」という神社がありました。村に悪霊が入ってこないようにと祀られたもので、往来する人々が旅の安全や健康を願って祈っていたとのこと。私有地とのことでしたので、立ち入りは遠慮したほうがいいですよね。(汗)

大村市松原2丁目、海辺の民家 鹿ノ島と街道 鹿ノ島

海辺にキレイな民家がたくさん並んでいます。その次に「鹿ノ島」が見えてきました。この鹿ノ島、古墳でもあるようです。

鹿の島。鹿の島は、昔は潮が引けば陸続きとなる島で、島には弁財天が祀られています。景勝地としても知られ、大正の頃には料亭などが建てられ、以後、避暑の客などで賑わいました。(案内板より引用)

鹿の島弁財天。「老松みどり映えた鹿の島」と呼ばれました。もとは浅瀬でつながれた古墳の島です。大正時代より料亭がつくられ、昭和の四十年代まで営まれました。島の中央部には、戦争で犠牲となられた地区出身の戦没者の招魂碑が建立されています。(案内板より引用)

松と民家と大村湾 大村湾と松 松原海水浴場 海水浴場の傍に松原一里塚跡(松原2丁目)

海と松と民家、が松原の長崎街道のキーワード。なお、海は海水浴場でもありますので、夏になれば無料で泳げます。海水浴場の傍には松原一里塚跡(約4km(一里)ごとに目安として設置した塚)がありました。

変配橋(大村市松原本町) 変配橋(大村市松原本町)

昭和45年3月建築の「変配橋(へんぱいはし)」

松原長崎街道の墓が並ぶ通り(大村市松原本町)相撲取り墓の案内板長崎街道の案内板(松原本町)長崎街道の案内板(松原本町)

「相撲取り墓」と長崎街道の案内板が見えてきました。相撲取り墓のほうは真正面からのお写真は気が引けたので撮ってません。ほんとに、普通のお墓だったもので。(汗)

相撲取り墓。この三基の自然石の墓は、相撲取りの墓です。墓石には「大荒鷲岩」、「秀の川」などのしこ名が刻まれています。いずれも江戸時代後期のものです。残念ながらどのような活躍をした力士かは分かっていません。令和三年三月三十一日 松原宿活性化協議会(案内板より引用)

街道沿いの料亭増田屋(大村市松原本町) 古風な民家(大村市松原本町) 中嶋呉服店(松原本町)

現在でも営まれている呉服店・料亭などが立ち並んでいます。民家もとても日本風のものが多く、「the街道」な雰囲気。なお、この増田屋料亭のある直前の交差点から街道と県道126号線が合流しています。

松原宿へ到着

旧松屋旅館

旧松屋旅館(松原本町)

旧松屋旅館。江戸時代には茶屋(休憩所)として営まれ、明治から昭和40年代まで旅館として営まれていたとのこと。この建物は昭和の旅館そのまま、ということでしょうか?(案内板には江戸時代に建てられた建物とあります)。二階に窓にひな祭りが展示され、現在でも大切にていることが分かります。

旧松屋旅館(松原本町)旧松屋旅館(松原本町)旧松屋旅館(松原本町)旧松屋旅館の案内板明治30~40年当時の松原宿の並び観音堂について

旧松屋旅館。変配川から、南の宿はずれのよし川までの五百五十二間(約六百四十メートル)が、松原宿と呼ばれ、七十一軒の家がありました。宿場の中央部にある八幡神社の門前には、酒屋を兼ねる茶屋(旧上野酒店の地)が建てられました。(元禄六年弐月四日の記)ここは諸大名の通行する時の小休憩所にあてられました。その前にある旧松屋旅館も江戸時代、同じく休憩所として利用され、その後、明治、大正、昭和四十年まで長く旅館として使われました。当時のままに古き、よき時代の和風の建物の様式を残しています。松原宿活性化協議会(案内板より引用)

松原宿跡(松原本町)松原宿跡(松原本町)

松原宿跡(茶屋跡)。ここには本陣や脇本陣はなく、宿場の中央部にある八幡神社の門前に茶屋が建てられ(現上野酒店の地)、諸大名が通行する時の小休憩地にあてられた。この茶屋は酒屋をかねていました。万治二年(一六五九年)当宿に駅場が置かれ、大村城下町と彼杵の両宿から荷物をここで継ぎ立てましたが、文政年間(一八一八~一八三〇)に廃止。庄屋は現在の松原小学校の地にあり、その門前に高札場がありました。松原宿活性化協議会(案内板より引用)

この宿場跡がある十字路を左折すると(西側へ向かうと)、八幡神社があります。

八幡神社

八幡神社

八幡神社の案内板

松原村の総鎮守で、鎌倉時代の末には既にあったという古い神社。神社の例祭は「松原くんち」として有名で、くんちでは、毎年相撲が奉納されているそう。

八幡神社。松原村の総鎮守で、『博多日記』の正慶二年(一三三三)に登場することから、鎌倉時代の末は既にあったと考えられます。一説には鎌倉時代に、伊東家が下向した際に、鎌倉の石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりといわれています。天正二年(一五七四)にキリシタンにより破壊されますが、江戸時代に再興されました。中岳の合戦に敗れた領主大村純伊が、八月十五日に領地回復の祈願をした伝承から、毎年、八月十五日に例祭を行っていましたが、明治以降は十一月十五日に行われてきました。この例祭は「松原くんち」として有名で、今でも毎年十一月の中旬に行われています。松原宿活性化協議会(案内板より引用)

伊東家屋敷(松原本町) 伊東家屋敷(松原本町) 伊東家屋敷の案内板

こちらの伊東家屋敷(跡?)、おそらくいまは一般の方がお住まいのようです。写真左下の石垣がよく見ると切り込み接ぎの石垣で、武家屋敷のたたずまいを残しています。

伊東家屋敷。建久元年(一一九○)、源頼朝の重臣工藤祐経が、全国三三か所に領地を賜りました。その一つが松原村の百町歩で、現地の管理者として下向したのが伊東家です。以後、代々八幡神社の別当を努めています。また、戦国時代、中岳の合戦で領主大村純伊が有馬家に敗れた時、松原浦より脱出する際に手助けするなど、古くから歴史がある家です。松原宿活性化協議会(案内板より引用)

長岡左近純生の墓(大村市松原本町340) 長岡左近純生の墓の案内板

長岡左近純生の墓。松原本町の中央、松原郵便局の南手に一群の石塔が建っています。この中で一m余りの自然石に「長岡院義忠純生日勇」裏面に事績を刻んだ塔があります。これが長岡左近の墓です。(墓誌名は郷村記(松原村)にある。)長岡家も戦国の常として苦難の道を歩きました。左近の曾祖父長岡純重は、文明六年(一四七四)の中岳合戦で大村純伊を助け、子息四人一族・従臣七六人と共に討ち死にしました。この時、末子千代之助(純生の祖父純胤)は母と共に佐賀県小城の千葉氏を頼り、小城で成長しました。大村純伊が帰国した後、大村家の家臣にもどり、父の純胤の代には大村純忠に仕えました。永禄六年(一五六三)純忠のキリスト教入信により、大村に内乱がおこり、武雄の後藤貴明がこれに乗じて野岳に攻め込みました。この時、千綿の地侍寺井近江は後藤勢に付いて千綿の小峰城で兵を挙げました。大村純忠は長岡重胤・純生に追い討ちを命じました。父重胤は戦死しますが、純生はこれにめげず奮戦し、大将寺井近江を討ち取りました。時に十八歳、その名は近隣にとどろきました。その後、数々の戦闘で武功をたて、この墓一帯に屋敷を賜り、寛永十八年(一六四一)九十六歳で亡くなりました。この碑は享保年間(一七一六~一七三六) に、子孫が純生の功をたたえて建立したものです。令和二年三月三十一日 松原宿活性化協議会(案内板より引用)

松原小学校と庄屋跡と案内板。立派な石垣 松原小学校と庄屋跡 松原庄屋跡の案内板

松原小学校、および松原庄屋跡です。写真ではわかりにくいですが相撲場があります。

松原庄屋跡。ここは、松原村の庄屋があった場所です。庄屋とは、江戸時代の村役人で、年貢を集めたり、村人の戸籍の届けをまとめ、藩から村に命じられた道や橋の修理の指揮、藩からの連絡事項の伝達など、村のまとめ役でした。村の百姓の中から任命されていました。庄屋の制度は、明治五年に全国で廃止され、庄屋の屋敷は松原小学校になっています。令和二年三月三十一日 松原宿活性化協議会(案内板より引用)

此れより松原宿(松原本町358)。長崎街道松原宿とおりの南側入口 正面にスーパーTSUBAKIYA(松原本町358) 街道と松原小学校(松原本町) 葭橋、石碑に「伝統工芸品 創業文明六年 松原鎌」

「長崎街道 此れより松原宿」の看板があります。長崎方面から小倉方面を目指す場合、こちらが入口となります。近くにスーパーマーケットTSUBAKIYAがありますが、ここにはかつては「八幡丸」というスーパーマーケットがあり、その八幡丸は先述の八幡神社のすぐそば街道上にありました。実は今回、その八幡丸跡の写真を撮りたかったのですが、すでに建物が取り壊されておりました。

34号線と合流、皆同町で再び分岐

松原宿を抜けたあと、街道は草場町で国道34号線と再び合流しますが、皆同町で再び、分岐し、次に34号線を横切ることとなります。

街道と34号線が合流している道路(撮影地点は皆同町)長崎街道の道標と街道。左に工場がみえる 皆同町の街道皆同町の街道。住宅が並ぶ

再び街道の道標が見えてきたら右(西)へ曲がり、国道34号線を横切ります。

長崎街道の道標街道の道標、先に横切る国道34号線がみえる街道を分断する国道34号線(皆同町) 34号線を横切り、振り返って、いま来た道をみる

国道を横切ると、しばらく住宅が続きます。街道の道標は特に見当たらず、しばらくは何もない。(笑)

街道(皆同町)街道(皆同町)から国道を振り返る街道(皆同町)街道(皆同町)と福重テニスコートの看板

シーボルトも渡った郡川

ここで、ちょっぴり有名な「シーボルトも渡った郡川」があらわれる。なぜシーボルトの名前を出したかというと、彼がこの郡川を渡る光景を絵画に残していたからです。

長崎街道の道標と郡川。シーボルトが渡ったあたり(皆同町)

現在はこの川を渡る際にはコンクリートの橋を通るが、江戸時代には橋はなく、川に並べてあった岩(飛び石)の上を歩いていたそう。

郡川と長崎街道の案内板 長崎街道の案内板、シーボルトのことが書かれてある 郡川

長崎街道は、江戸時代初期に整備された小倉から長崎に至る五十七里(約二三0㎞)の九州随一の幹線道路で、脇街道ながら、江戸と長崎を結ぶ重要な街道でした。江戸時代、長崎は幕府の鎖国政策のもと唯一海外に開かれた港で、オランダや中国等との貿易を行う場所でした。この貿易によってもたらされた情報や文物は大変貴重なもので、異国の文化にいち早く触れようとして学者や商人などが長崎に向かい大変賑わいました。また、オランダ商館長などの異国人が江戸との往来に利用しました。このように、長崎街道は異国文化と江戸を結んだ道であり、江戸時代の文化・経済等に大きく関与しました。郡川は、大村宿と松原宿の途中を流れる河川で、オランダ商館医シーボルトの著書「日本」には、「森を流れる川で深くはないが、ときには急流となり、このあたりでは二筋に分かれて海に注いでいる。大きな玄武岩が河床に横に並べてあって、それを渡って人や荷馬が通っていく。」と記述してあり、この郡川を飛び石で渡る様子が挿絵で描かれています。川を渡り、少し行くと玖島城の築城奉行を努めた長崎惣兵衛の墓があります。(案内板より引用)

郡川を沖田町側からみる郡川から階段で登れる 川を登った所にある石碑。郡橋で使用されていた水切り石がある。「福重橋」と書かれた石碑。(沖田町、郡川のそば)

郡川を渡って沖田町側から見る。川へは階段でも上り下りできる。傍に石碑によれば、明治19年から昭和16年までに「福重橋(郡橋)」が掛かっていたようだ。どのような橋だったのか見てみたい。
反対側を向くと、また街道が続いており、その先を国道34号線が横切っています。国道の前に、小さな神社があります。祇園牛頭天王です。

長崎街道と奥に国道34号線(沖田町) 祇園牛頭天王(沖田町)祇園牛頭天王について案内板 長崎街道、右側に祇園牛頭天王(沖田町)

祇園牛頭天王は江戸時代の大村郷村記に京都の妙伝寺が願主となって、慶安元年(一六四八年)創建されたとある。その当時の場所は国道より上付近で奥行三十二m、横幅六十一mの境内があった。また、ご神体は木の座像で、彩色されているとも書いてある。今は規模を縮小して移し、現在地にある。牛頭天王とはインドでは祇園精舎の守護神であり、悪疫を防ぐ神として日本では京都祇園の八坂神社などにも祭られている。そのことから昭和初期に郡地区で赤痢が流行した際に、早く鎮まるように祈願したと言う。昔は長崎街道近くでもあり、往来の多くの人も参詣されたと思われる。今は沖田町の人々が「祇園さん」と親しみを込めて呼ばれ、毎年例祭をしている。二〇一五年三月一日 沖田町内会・福重地区活性化委員会(案内板より引用)

国道34号と県道257号を横切る

国道34号線の先に長崎街道(沖田町) 長崎街道と道標、左側にお墓がならぶ長崎惣兵衛の墓(沖田町) 長崎街道(沖田町)。先を県道257号線が横切る

国道を(ちゃんと横断歩道を使って)渡ると、長崎街道の道標と、左側に墓地があります。史跡として長崎惣兵衛の墓もありました。この通りはとても短く、次は県道257号線が横切ります。

長崎惣兵衛の墓。長崎惣兵衛は、大村純忠の重臣として活躍した長崎甚左衛門の弟です。大村に住まい、玖島城の築城奉行を務めました。この墓は大正時代に下久原から移転したものです。(道標より引用)

目の前を横切るのが県道257号線(沖田町) 県道を越えて再び長崎街道へ(沖田町)左側に線路と新幹線の車両基地 新幹線の車両基地

県道257号線を(ちゃんと横断歩道を使って)渡ると、再び長崎街道へ。ここは真っすぐな道が続き、左側に新幹線の車両基地がみえます。

再び34号線と合流、しばし直進

長崎街道と道標(宮小路3丁目) 長崎街道(左)と国道34号線(右)(宮小路3丁目)

再び、国道34号線と合流しますが、ここからしばらくは4号線が続きます。34号線については、街道感はあまり残っておりませんが、よく探してみると「なつかしさ」を感じさせてくれる風景が残っています。

街道(国道)沿いのお店『はやし染と織』(宮小路2丁目601-1)街道(国道)沿いの商店街。美容室跡、カラオケ、釣り具屋(宮小路2丁目)

昊天宮

国道34号線上にある大村市でとてもメジャーな神社『昊天宮』です。僕個人は、バイクを購入した際に交通安全の祈願でお世話になりました。(その甲斐あってか、本当に無事故です)。

街道(国道34号線)沿いの神社、昊天宮(宮小路2丁目537)昊天宮の鳥居を街道(国道の歩道)から見る(宮小路2丁目537)昊天宮の拝殿(宮小路2丁目537)昊天宮の『桃の大石』

歴史はとても古いらしく、その起源は2000ほど前とのこと(もちろん、こういった伝承は歴史としては多少疑ってみる必要はあります)。案内板にとても丁寧な解説があったので、下記に引用します。

昊天宮由緒略記。今から二千年程前(弥生時代)、郡川流域の平野に文化を築いた時代があり、その当時の豪族が一門の氏神として、祖神をお祀りしたのがこの昊天宮です。その頃は肥前国彼杵郡(現在の東彼杵郡・西彼杵郡・大村市)と呼ばれ、 この地域の総鎮守で現在の沖田町付近にあったといいます。御神体は、和銅五年(七一二年 奈良時代初期)、行基菩薩が郡岳(標高826m)の聖域で謹製奉納したと記されてあります。永観二年(九八四年 平安時代初期)大村家初代領主直純公着任以来、大村家の守護神として御尊敬深く、社殿も華麗広大で郡内はおろか他郡からも老若男女の参詣者群をなし、お祭りも流鏑馬(やぶさめ)等の神事もあり、大変賑やかであったといいます。文明六年十二月(一四七四年 室町時代中頃)、大村純伊公は、萱瀬の中岳で有馬氏との戦いに敗れ、日夜、昊天宮に御祈願になり、千日間参拝の誓いを立てたところ「伊勢参宮せよ。」との霊夢を得て参拝の途次、有力な援助者渋江公勢が現われ大勝利となり、文明十二年八月(一四八〇年)御帰領できたのであります。そこで、朝夕戦勝を祈願している昊天宮に詣で喜びの奉告を行ない、境内に陣地を敷いて敵の夜襲に備えたところ、それを聞いた宮小路・黒丸・沖田等の領民たちが大喜びで駆け寄り、領主のたくましく成長された姿を見て嬉し涙の中に作った食事が、今の大村の「おし寿司」で昊天宮が発祥の地であります。ここに昊天大神の御神徳を尊び感ぜられ、祭祀の礼厚く社殿の造営・神田の寄進数町等、彼杵郡総鎮守としての神社の面目を一新されました。その後、大村純忠公のキリシタン政策により、天正二年(一五七四年 安土桃山時代)大村領内の寺社と共に、当宮も焼き討ちにあいました。この時御神体は、事前に阿金法印により嬉野に遷されましたが、慶長七年(一六〇二年)大村喜前公による再興時に、もともと昊天宮の御旅所であった現在の境内地にお戻りになりました。再興後の当宮は、大村藩総鎮守として、また大村藩主の直祭社として、開運・旗上げ・安産・ 厄除け・旅行の守護神として崇敬特に厚く、祭礼には大村藩内四十八ヶ村の村により、氏子・崇敬者、群をなせりと記してあります。明治になりまして廃藩置県後は郡村にて奉齋しておりましたが明治二十二年四月、町村が規制されてからは竹松村のみにて奉仕して参りましたので、地名を以って竹松神社と称していましたのを昭和三十六年九月、大昔の通り昊天宮と改名し今日に至っております。(案内板より引用)

大村寿司の誕生神話などは諸説ありますが、伝承ということで参照ください。
次に『金元山聖宝寺跡』です。

金元山聖宝寺跡(竹松本町1205)金元山聖宝寺跡の案内板八天神社(竹松本町)八天神社の一の鳥居(竹松本町)八天神社に安置してある石碑。年号などが記されている。聖宝寺山門推定地(竹松本町856-0805)

金元山聖宝寺は2021年に大型建物跡が発見された戦国期の寺院です。大村によくある、キリシタンに破壊されてしまったお寺です。6枚目の写真が聖宝寺山門推定地です。
寺院内には『八天神社』という神社もあったそうです。現在、金元山聖宝寺跡のすぐそば(竹松本町第2公民館の横)に八天神社もおかれています。写真の赤い鳥居の神社ですね。

史跡 金元山聖宝寺跡。この寺は今の原口町、竹松本町の国道より西方一帯にあったもので、境内は東西約二五〇メートル、南北約二九〇メートルにわたる広大なものであった。創建の時期は明らかでないが、古くは禅の大寺であったといわれる。天正二年(一五七四) キリシタンにより焼き払われた。明暦三年(一六五七)の郡崩れ(潜伏キリシタン発覚事件)の後、二度とこのようなことが起こらないことを願って延宝三年(一六七五)、旧霊場に堂宇を再興した。それにより真言宗多羅山宝円寺の住職がかねた寺として、郡村鎮護の寺院となってきたが、明治になり廃寺となった。寺跡は聖宝寺(しょうぼうじ)、山門口の地名として残っており、原口の墓地には、金元山供養塔がある。八天神社は旧境内の一角を占め、 領主大村純伊の流浪中、従っていた大村山城守純次入道慶哲の墓をはじめ、江戸時代の年号銘のある石仏類を安置してある。昭和五十八年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

首塚跡と胴塚跡

つぎは首塚跡。潜伏キリシタンに関するかなしい歴史です。

首塚跡(原口町617-34)首塚跡の案内板(原口町617-34)首塚跡(原口町617-34)首塚跡(原口町617-34)

つづいて胴塚跡です。胴塚は本来はこの場所ではなく、国道沿いのやや北側にあったと伝えられています。

胴塚跡の石像(桜馬場2丁目463)胴塚跡(桜馬場2丁目463)胴塚跡の石像(桜馬場2丁目463)

首塚跡。天文十八年(一五四九)日本にキリスト教が伝わり、各地へ布教が行われました。大村では、領主大村純忠が日本初のキリシタン大名となり、領内の布教を強く支援したことから、領民のほとんどがキリスト教に改宗し、キリスト教一色になりました。しかし、豊臣秀吉、続く徳川幕府の政策により次第にキリスト教の禁教が厳しくなり、宣教師や信者への弾圧は日増しに強くなっていきました。大村藩でもキリスト教が禁止され、領民はキリスト教から仏教への改宗を厳しく迫られました。島原の乱から二十年後、領内にはキリスト教の信者が一人もいなくなったと思われていた明暦三年(一六五七)、郡村を中心として隠れてキリスト教の信仰を続けていた人たちが発覚する事件が起きます。事の起こりは郡村の百姓兵作が長崎の知人を訪ねた際に「矢次の里に年が十二、三才の少年がいて萱瀬の岩穴にキリシタンの絵を隠し持っている。天草四郎に勝るとも劣らないとの噂である。」ともらしたことです。この話が長崎奉行に伝わり、大村藩の潜伏キリシタンの捜索が始まりました。捜索の結果、六〇三人もの人々が捕まり、キリシタン弾圧史上、まれに見る潜伏キリシタン発覚事件となりました。事件の中心が郡地区であったことから「郡崩れ」と呼ばれています。あまりの逮捕者の多さに大村藩だけでは対応できず、周辺の藩にも分散して預けられ、取り調べが行われました。逮捕者のうち四〇六人が打ち首となり、そのうち一三一人が放虎原で処刑されました。信者の首は、見せしめとして街道に面した獄門所に約一ヶ月間晒されました。当時はキリシタンの妖術で首と胴がつながって復活することを恐れたため、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられています。この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が行われていくこととなります。(案内板より引用)

なお、案内板は首塚跡と胴塚跡でほぼ同じ内容のものでしたので、胴塚跡の方は割愛しております。

千葉ト枕

桜馬場には、放虎原を開発した大村市の偉人『千葉ト枕』に関する遺構がいくつかあります。主に屋敷跡、鉄砲的場跡、神社、少し離れた後に墓があります。

八坂神社の拝殿(桜馬場2丁目)八坂神社の鳥居(桜馬場2丁目)八坂神社(桜馬場2丁目)八坂神社の案内板(桜馬場2丁目)

八坂神社由緒記。八坂神社がある現在の桜馬場一帯は、江戸時代には放虎原といわれ、草木が茂る荒れ地でした。その原野を開墾し畑を開き、桜や桃・杉を植え、製紙業をおこすなど、放虎原の開発に当たったのは千葉ト枕でした。ト枕の努力によって「並松の宿・桜町」という町ができるほどに開発が進みました。ト枕は現在の国道を挟んだ神社前の場所へ(現・天晴会館新館)に屋敷を構え家臣達に大筒の砲術を教え、大筒一隊をも率いました。この開発された町の守護神として祀られたのが、この八坂神社です。もともとこの社は、本堂川端の大村氏の居館・大村館内(現・乾馬場)に祀られていましたが、寛文六年(一六六六)にト枕によって現在地に勧請されました。当時の境内は、「三〇間(約54メートル)に二十五間(約45メートル)、周囲は雑木山」と記されています『郷村記》。神社建立の前年、寛文五年(一六六五)にはそれまで下手(海側)を通っていた道筋を、神社前に付け替えて二重の道筋とし、一方は通行の邪魔にならないよう馬市専用の道としました。これが江戸時代に多くの旅人達が通った長崎街道です。備中岡山の薬種商・古河古松軒は、この宿場を通った時の印象を、「この所は小さな町場ながら往来の間に数百株の桜を植え、左右に通行できるよう広い道が通っている。草葺きの家が建ち並び、小笹の生垣で見苦しい所は目隠し、町の内は塵一つないように掃除がなされ、はなはだ綺麗な町である」と記しています。『西遊雜記』)。現在、八坂神社は桜馬場第一・第二町内、西大村本町の氏神様として、平成九年には社殿も新しく立て替えられ、七月十五日前後の日曜日には、暑気払いの祇園祭が行われ、多くの氏子町民の参拝で賑わいます。(案内板より引用)

千葉流鉄砲的場跡千葉流鉄砲的場跡の道標(桜馬場2丁目)千葉ト枕屋敷跡と並松宿(桜馬場2丁目)

千葉ト枕屋敷跡と並松宿。ここは、長崎街道の並松宿と地域の開発に力を注いだ千葉ト枕の屋敷のあった場所です。千葉ト枕は、飯笹平六左衛門胤重といい、大村藩四代藩主純長に仕え、放虎原内の開発に力を注ぎました。寛文四年(一六六四)藩主から放虎原に荒地二十五町歩を賜り、水の乏しかったこの地に用水を引き、開拓を行いました。この開拓が、荒れ地が多かったこの地域を豊かな農地に変えたと言われています。また、三年後には、数千本の杉、櫨などを植え、製紙などの産業を興し、黒木には七万本の杉苗を植林し、農林業など産業の振興と交通の便を図るなど郷土の開拓発展に尽くしました。このほか、卜枕は大筒組を組織し、砲術を伝授するなど軍事面でも藩に貢献しました。並松宿には、ト枕の組織した大筒組の関係者が多く住んでいたといわれ、屋敷の裏には鉄砲的場があったと伝えられています。街道の整備にも力を入れ、それまで、少し海側を通っていた街道を現在の国道34号線の所に付け替えを行い、街道沿いに居宅を構えました。街道の馬場には桜、桃、杉などを植え、祇園社を建立するなど、大村宿と松原宿の間の小宿場をつくり、ここを「並松の宿桜町」と称しました。江戸時代後期、並松宿には、桜が百二十株ほどあったと記され、「桜馬場」の地名の由来となっています。ト枕の墓は、ここから少し南西に行った桜馬場墓地の中にあります。(案内板より引用)

教科書に名前が出てくるような偉人ばかりではなく、自分の町の偉人の事績を知ることもとても大切だと感じます。

街道の一本道がしばし続く

西大村本町にて、再び国道と街道が分岐します。ここから両道はしばらく別々のところを通るため、街道の一本道が続きます。
長崎街道と道標(西大村本町) 国道34号線と道標(西大村本町)

ここから、西大村本町の桜馬場商店街に入ります。ここは、車道なので車線こそ広いですが、商店街の店がまだ多く営まれており、とても“街道感”があります。

桜馬場商店街(西大村本町)桜馬場商店街を右(西側)へカーブ(西大村本町) 桜馬場商店街(西大村本町)桜馬場商店街(西大村本町)

たこ焼き屋さんやお茶屋さんがとても目を引きますね。他にもバー、居酒屋など、飲食系のお店が多いです。ちなみに、一昔前までは本屋(長崎書店)やゲームセンター(ジョイフル)などもありました。この通りはすぐそばに陸上自衛隊の竹松駐屯地があるから、お店に自衛隊員が多く入るのでしょうね。

交差点を越えて次のとおりへ(松並1丁目) 長崎街道(松並1丁目)松並1丁目長崎街道(松並1丁目)

交差点を越え、次の通りへ進みます。先ほどの通りに比べるとやや閑散としていますが、それでもちらほらお店が営まれています。この辺りはアパートもあり、多少の客入りはあるはずです。(しかし、すぐそばを国道が通っているので、やはりそちらの賑やかさには劣る)

獄門所跡~大村のかなしい歴史

獄門所跡(松並1丁目) 獄門所跡(松並1丁目)

獄門所跡。なかなか凄惨な大村の歴史です。詳しくは下記をご覧ください。

獄門所跡。この場所は、キリスト教信仰が禁止されていた時代に大村藩郡地方で六〇三人のキリスト教信者が捕まった「都崩れ(一六五七年)」という事件に関する史跡です。死刑で斬られた受刑者の首が見せしめのためにさらされた場所だといわれています。当時日本ではヨーロッパからの侵略を恐れた政府がキリスト教の信仰を禁止していました。政府が厳しく取り締まっていたので、キリスト教徒はいなくなったと思われていました。しかし、大村藩郡地方の山奥にある「仏の谷(地図参照)」 では、隠れてキリスト教の絵像を祀り、祈っている人々がいました。その噂をある百姓が漏らしたことから、六〇三人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、 四〇六名が死刑になりました。あまりに数が多かったため処刑は数カ所に分けて行われました。死刑囚のうち放虎原殉教地(地図参照)で処刑された一三一名の首は塩漬けにされ、見せしめとして当時人通りの多かった「長崎街道※」沿いのこの場所(獄門所)で二〇日間さらし首にされました。その後、受刑者の首は「首塚跡(地図参照)」に埋められたといわれています。(案内板より引用)

しばらく進むと、長崎街道の道案内がありました。ここからはしばらくお店が少なく、住宅が多く並んでいます。

長崎街道の住宅街(松並1丁目)長崎街道の住宅街(松並1丁目)西大村中学校と中央小学校(松並1丁目)長崎街道の住宅街(松並1丁目)

街道沿いに中学校と小学校があり、登下校の子供たちなど、人通りは少なくありません。かつてはこの通りに獄門所がありましたが、今ではこのように平和な空間となっています。

長崎街道(杭出津3丁目)長崎街道(松並1丁目) 長崎街道(杭出津3丁目)長崎街道(杭出津3丁目)

ここから少し街道を間違えやすくなっています。Y字の分岐が三カ所ほど続きますが、常に細いほうが街道です。

左側が街道(杭出津3丁目)長崎街道、車道を横ごり真っすぐ(杭出津3丁目)

一枚目、街道は左の細いほう(道でも問題なく街道に合流はできます)。
二枚目は横切る車道を(横断歩道を利用して)越して真っすぐ直進、つきあたりを左折(南方面)します。

長崎街道と案内板。よく見ると案内板は二つ映っている。(杭出津3丁目)先の案内板から南へ進む(杭出津3丁目)次のT字路を右折。よく見ると先に街道の道標が映っている(杭出津3丁目) 長崎街道辻道標(杭出津3丁目)

一枚目、よく見ると長崎街道の案内板が二枚映っていますが、奥の小さく映った案内板の所から歩いて来ました。次に右(南)を振り返った所が二枚目です。そのまま真っすぐ進む(三枚目)み右折(西)します。石碑(辻道標)と看板を発見(四枚目)、しかし石碑は何て書いてあるのかわかりません。

長崎街道の看板と辻道標(杭出津2丁目) 長崎街道と道標(杭出津2丁目)道標の交差点を南方向へ(杭出津2丁目) 街道を直進(杭出津2丁目)

先の辻道標から西方向を目指すと、また道標があります。この道標の交差点をに南方向へ進みます。ここからはしばらく直進あるのみ。

津田板金工業(杭出津2丁目)長崎街道(杭出津2丁目)長崎街道、閉店した酒屋さん(杭出津2丁目)真宗大谷派 専念山 正法寺(杭出津2丁目)真宗大谷派 専念山 正法寺(杭出津2丁目)長崎街道杭出津2丁目)長崎街道杭出津2丁目)

ここ、杭出津2丁目の長崎街道、とても良い雰囲気を出してますね。かつては料亭もあり、もっと賑わっていたようですが、現在では時が止まってしまっているかのような静けさ。途中にあるお寺は「真宗大谷派 専念山 正法寺」です。

辻田児童遊園(杭出津2丁目)

ここの児童公園、実は歴史史跡が二つもあります。幕末の剣道道場「微神堂」と、キリシタンに焼き討ちされた「観音寺跡」です。

微神堂(辻田児童遊園、杭出津2丁目)微神堂微神堂微神堂の案内板

市指定有形文化財 微神堂。微神堂は、玖島城下の上小路に斎藤歓之助が開いた剣道道場が始まりです。大村藩は、幕末の不穏な情勢から、藩士に実戦的な剣術を学ばせる必要があると考え、神道無念流を採用し、江戸から若手剣豪として有名だった斎藤歓之助を招き、藩士の剣術教育を行いました。 その後明治四十五年に、道場の建物は歓之助の弟子の渡辺昇により玖島城跡に移築され、さらに大正七年に旧西大村役場の敷地であった現在地に移築されました。現在も「微神堂」の扁額が受け継がれ、道場に掲げられています。微神堂の建物は、多くの補修が加えられているものの、基本構造は幕末から明治のものを残しており、歴史的建造物としての価値を有しています。幕末維新期の剣道道場が残っていることは全国的にも少なく、現在も使用されているものはさらに希少です。令和五年二月 大村市教育委員会(案内板より引用)

観音寺跡(辻田児童遊園、杭出津2丁目)観音寺跡観音寺跡の案内板

観音寺跡。彦流山観音寺は、真言宗の多羅山宝円寺の末寺で、領内の彦山派修験道の中心となった寺院です。もとは山田の滝の下手にあって、彦山大権現の神宮寺で、円満山神宮寺といっていました。十六代領主大村純伊の時に建て替え、観音寺と名を改め、千手観音一体を本尊として安置したとされています。しかし、天正二年(一五七四) キリシタンの焼き討ちにあい焼失します。この時、本尊の千手観音は住職の阿金によって、嬉野に持ち出され難を逃れました。 江戸時代に入り、キリシタンによって破壊された社寺の復興が行われる中、寛永十年(一六三三)もと山田権現のお旅所であったこの地に三代藩主大村純信公が庵室を建てます。さらに寛永十四年(一六三七)、この地に彦流山観音寺を再興し、嬉野に行っていた千手観音も迎えられました。境内には護摩堂、鐘楼、彦山大社殿・拝殿があり、領内に二十二の末寺・末派の修験坊を持っていましたが、明治になって廃寺となりました。現在の児童遊園地一帯が本堂の跡です。また、明治以後、この場所には西大村役場が置かれ、昭和十四年の大村町との合併まで村の中心となっていました。 平成十五年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

寺跡がある、というより、この公園自体が寺跡ですね。大村市はこのように、キリシタンによって焼き討ちされた歴史を持つ寺(と寺跡)は多く、あちこちに点在しています。

料亭富士松(杭出津2丁目)長崎街道(杭出津2丁目)大上戸川をわたる橋 長崎街道(水主町2丁目)

まだ営まれている料亭を発見。そして大上戸川をわたり、街道は水主町へ入ります。このままもう少し直進すると、大村宿に到着します。

大村宿水主町口

タバコ屋の跡(水主町2丁目)和田商店(水主町2丁目) 大村宿水主町口の道標(水主町2丁目)大村宿水主町口の道標(水主町2丁目)

ここから「大村宿水主町口」に入ります。どうやらかつてはここに石垣があったそうですね。

旧長崎街道大村宿水主町口。ここは、大村宿出入口で水主口と呼ばれ、当時は石垣が築かれていました。水主とは船乗のことで、彼らが住んだところから、水主町と言われています。(道標より引用)

水主町商店街(水主町2丁目)電気屋の跡(水主町2丁目)水主町商店街(水主町2丁目)アーケードが見えてきた(大村市本町)

やっとアーケードが見えてきました。水主町商店街を抜け、信号に立つと、脇に長崎筋道脇本陣跡の道標がそっと立ってます。

長崎筋道脇本陣跡(大村市本町)長崎筋道脇本陣跡(大村市本町) 左側に長崎筋道脇本陣跡の石碑(大村市本町)

長崎筋道脇本陣跡。表口四六m、奥行五一m余の敷地に七棟の建物があり、本陣の予備にあてられた宿舎であった。(道標より引用)

大村アーケード~長崎街道大村宿

やっと「長崎街道大村宿」へ到着しました。アーケードの入口に大きな看板がありますが、それ以外、特に案内板のようなものは見当たりません。(苦笑)
私はこの大村市で生まれ育ったので知っていますが、90年代はじめのころまではもっと人通りがあり、それこそ「本陣跡らしい」光景であったと思います。
現代では、アーケードとしてはかなり閑散としちゃってますが、街道跡としては、賑やかなほうではないでしょうか。(ネガティブなことを書いてしまいましたが、愛情だと思って下さい)

大村アーケード・長崎街道大村宿(大村市本町) アーケード内(大村市本町)大村アーケード(東本町)

本陣跡

本陣跡(大村市本町、アーケード)
長崎街道、本陣跡ちかく(大村市本町、アーケード)本陣跡(大村市本町、アーケード)本陣跡(大村市本町、アーケード)本陣跡の次のとおりを目指す(大村市本町)

やっと「本陣跡」につきました。とはいっても、それらしい遺構は特になく、案内板があるのみです。

長崎街道・大村宿「本陣跡」。江戸時代・大村藩の城下町として栄えた大村は、小倉から長崎に通じる長崎街道の宿場町でもありました。今の水主町二丁目からアーケードを通って鶴亀橋の手前までが長崎街道大村宿にあたります。大村宿には大名や幕府の役人などが宿泊する本陣が置かれていました。屋敷は鯨長者・深澤儀太夫が寄進したもので、建坪は二○○坪あったといいます。市内に現存する日本家屋のなかでは梶山御殿が二○○坪ですから、その規模が偲ばれます。付近には旅籠が軒を連ね、茶屋や一杯飲み屋などもあって大いに賑わいました。NHKドラマで有名になった長崎奉行も今のアーケード街を歩き一晩を過ごしたことでしょう。(案内板より引用)

大村宿場・本陣跡を通って、次へ進みます。

是より諫早道

長崎街道大村宿本陣通り商店街(本町)アーケードを出ても商店街が続く(本町) 街道は東へ(本町)「旧長崎街道、是より諫早道」の案内板(本町)

呉服店・居酒屋・金物屋など、アーケードをでた後も商店街が続いています。そして、街道は東側へ方向転換。ここで再び長崎街道の案内板を発見。「是より諫早道」とあります。当時は「諫早丁」と呼ばれ、ここから諫早への道を「諫早街道」と呼んだそうです。

「旧長崎街道 是より大村宿」(東本町) 街道沿いの美容室(東本町) 長崎街道の道標、右(南方向)へ(東本町)

諫早道の道標をまっすぐ進み、再び長崎街道の案内板を発見。次は交差点を右(南方向)へ向かいます。

街道をまっすぐ、鉄道の下を潜る(武部町)内田川(武部町~玖島3丁目)街道がゆるやかに左(東方向)へ。右側に旧円融寺庭園(玖島3丁目)旧円融寺庭園の階段(玖島2丁目)

内田川を越え、街道を真っすぐ進むと左側(東方向)へゆるやかな坂道カーブに差し掛かります。が、その前に右手に旧円融寺庭園がありますので、そちらに寄り道します。

旧円融寺庭園

旧円融寺庭園・大村護国神社の鳥居大村護国神社(玖島2丁目505)大村藩三十七士の碑春日神社(玖島2丁目456)

写真は左から、階段を登った所にある鳥居、護国神社、大村藩三十七士の碑、春日神社です。旧円融寺庭園と並列するように、すぐ隣に春日神社があります。

大村藩三十七士の碑。日本中が勤王か佐幕かと混迷していた幕末のころ、大村落では、渡辺清・昇兄弟、針尾九左衛門、松林飯山、長岡治三郎、楠本正隆らを中心として、勤王の動きがありました。彼らは、同志で血盟を結び、密かに会合を続け、諸藩の志士と交わり、時の藩主大村純熈へ幾多の建言を行うなどその活躍はめざましいものでした。この同士が後に三十七士と呼ばれ、幕末の大村藩を率いた集団です。慶応三年(一八六七)中心人物の一人であった松林飯山が暗殺された事件を契機に佐幕派の多くが処罰され、藩論が勤王に統一され、倒幕に向かいました。明治二年、新政府の論功行賞により大村藩に与えられた賞典は、薩摩、長州、土佐に次ぐ三万石であり、倒幕における大村藩の活躍が高く評価されたことがうかがえます。このことは、藩主の英断とともに、その原動力となり藩を率いていった三十七士の活躍によるものが大きかったと思われます。これらの碑は、三十七士の功績を讃えるため、倒幕の際に倒れた人々の祭ってある当地に、三十七人の碑を死没の順に並べて建てられました。明治三十六年に建設が始まり、幕末に倒れた松林飯山を筆頭に、大正六年に三十七基がそろい、現在に至っています。平成八年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

戊辰の役戦没者の碑、庭園、とゲートボールの練習をしているお爺さん戊辰の役戦没者の碑庭園部分。石がたくさん並んでいる旧円融寺庭園の説明版。庭園部分の構造を丁寧に説明してある

『戊辰の役戦没者の碑』とその後ろの庭園部分。地面に設置してある説明版では庭園部分の石の配置などが丁寧に説明してります。なお、あまり人が来ないのか、ゲートボールの練習をしているお爺さんがいらっしゃいました。

戊辰の役戦没者の碑。戊辰戦争に明治新政府側に立って参戦した大村藩は、とりわけ東北地方での奥羽越列藩同盟軍との戦いで活躍し、激戦となった刈和野(秋田県)の戦いでは、多くの戦死者を出しました。円融寺跡地には、これら戦没者を祭った二十三基の墓碑が立っており、彼らの遺髪が納められたといわれています。この中には、刈和野で戦死した少年鼓手浜田謹吾のものも謹吾少年は十五歳の若さで参戦し、頭部に銃弾を浴びて戦死しました。血染めとなった上衣の胸に、母が出征のときに縫いつけておいた和歌は、地元の人々の感動を呼び、そのなきがらは手厚く葬られ、語り継がれたといわれています。このことが縁となり、昭和五十四年、大村市と秋田県角館町は、姉妹都市の関係を結びました。「双葉より 手くれ水くれ待つ花の 君がみために 咲けやこのとき」平成八年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

合祀者名碑旧円融寺庭園の護国神社へ繋がる階段を上から見下ろす(玖島2丁目505)旧円融寺庭園の案内板旧円融寺庭園の前の通り『草場小路』(玖島2丁目~3丁目)

国指定名勝旧円融寺庭園 円融寺跡と庭園。松林山大乗院円融寺は、江戸時代初期の承応元年(一六五二)大村四代藩主大村純長によって、徳川家光以下歴代将軍の位牌を祭るために創建された天台宗の寺院です。純長は幕府勘定奉行伊丹勝長の四男で、先代純信の養子となりました。しかし、幕府の正式の許可がおりる前に純信が亡くなり、藩の存続が危ぶまれましたが、三代将軍家光の裁可で跡目相続が許されたので、その恩義に報いる意味で、家光の没した翌年に建てられました。この様な寺は、御三家及び五万石以上の大名に限り幕府は許しましたが、純長の強い懇願によってできたと言われています。建設に当たっては、当時、五島灘一帯にかけての捕鯨業で莫大な財を成していた深澤儀太夫勝清の寄進により、その費用が賄われたと伝えられています。長い石段を上ると、前方の斜面に雄大な石庭が築かれています。巨石を数多く使用し、三尊方式による石組は、桃山時代の様式を色濃く残し、その規模の雄大さと傑出した石組は全国的にも数少ないものといわれ、昭和五十一年に国指定の名勝となりました。この寺は、明治維新に廃寺となり、戊辰戦争の戦死者を祭るための旌忠塋が建てられました。のち招魂社と改称し、ついで護国神社と改められ今日に至っています。境内には、戊辰戦争の戦死者の墓碑や、維新で活躍した大村藩の三十七士の石碑が残されています。平成八年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

街道の面影が残る通り

さて、街道に戻ります。ここからは街道のアップダウンが厳しくなります。

長崎街道の道標を左折(東方向)(玖島3丁目)街道は細い坂道へ(玖島3丁目)墓地(玖島3丁目)長崎街道の墓地(玖島3丁目)

ここで街道はさらに左(東方向)の細い路地へ入ります。そして、その先はしばらく墓地が続きます。粗相のないよう、礼儀正しく進むことにします。

墓地と街道を上から見る(玖島2丁目)街道と墓地、合流点に道標を発見(玖島2丁目)長崎街道と道標(玖島2丁目)長崎街道の案内板と松林飯山の墓の案内板がある(須田ノ木町-玖島2丁目)

墓地を抜けて、街道の道標を発見。ここで下から出てきた車道と街道が合流します。街道は右だが、左に「松林飯山の墓」があります。今回はそのまま街道を進むと、次に交差点。街道はそのまま直進であるが、右(西側)に進むと「松林飯山遭難の碑」があります。

松林飯山遺難の碑(玖島2丁目)松林飯山遺難の碑(玖島2丁目)

若くして、幕末の時代に暗殺された松林飯山、遭難の碑です。「遭難」とは暗殺事件のことを指しているのですね。

松林飯山遭難の碑。松林飯山は、筑前国(福岡県)に生まれ、父杏哲らと九才の時、母の郷里の大村領に移り住んだといわれています。三歳の時に字を書き、六歳で孟子、七才で詩経を読み、神童と呼ばれるほどでした。安政三年(一八五六)から藩命で江戸にある昌平黌に学び、松本圭堂、岡千仞と並んで三秀才といわれました。安政六年帰藩し、藩校五教館の学頭となり、四年後には、祭酒(教授、校長)に昇進、勤王思想を広め、藩内の同士、渡辺昇、楠本正隆らと行動を共にしました。しかし、藩内は、勤王と佐幕両派の対立が激しく、不穏な情勢でした。慶応三年(一八六七)正月三日城中の謡初めの式に参列し、夜九時ごろ帰る途中、この付近(自宅はこの上の屋敷)で刺客に襲われ、維新を目前にして、わずか二十九才の若さで倒れました。しかし、飯山の暗殺事件によって下手人とされた佐幕派の多くが取り締まられ、これを契機として藩論は勤王一本にまとまり、その後、大村藩は倒幕において大いに活躍しました。この碑は、元函館控訴院長である一瀬勇三郎氏らの尽力により、昭和七年に建立されたものです。飯山の墓は、ここからこ二○○メートルほど上の墓地の中にあります。平成九年三月 大村市教育委員会

さて、先ほどの道に戻り、次は直進します。

街道と案内板(須田ノ木町-玖島2丁目)

案内板を見ると「この付近は~当時の面影が残っている貴重な場所」とあります。確かに、先ほどの墓地のあたりからとても街道感があります。

旧長崎街道。長崎街道は、小倉から長崎に至る五十七里(250㎞)の江戸時代の幹線道路で、脇街道ながら、江戸と長崎を結ぶ重要な道路でした。江戸時代、長崎は幕府の鎖国令のもと唯一海外に開かれた港であり、 オランダや中国との貿易を行う場所でした。この貿易によってもたらされた情報や物品は、江戸時代においては大変貴重なものであり、これらの海外文化にいち早く触れようとして学者や商人などが長崎に向かい大変賑わいました。長崎港に上がった物資は、大坂、京都、そして江戸へとこの街道を伝わっていき、また、オランダ商館長などの異国人が江戸との往来に利用しました。このように、長崎街道は、将に異国文化と江戸を結んだ道であり、江戸時代の文化・経済等に大きく関与しました。この街道を通った人物には、オランダ商館の医師シーボルトや蘭学者で絵師でもある司馬江漢、歴史学者頼山陽などがおり、これらの学者や文人たちが長崎往来の記録を残しており、その中に当時の大村も描かれています。この付近は、城下武家屋敷街の東端を通っていく箇所で、当時の面影が残っている貴重な場所です。街道は、大村宿の入り口から山手の方へ大きく曲がり、山際を通って鈴田へと抜けています。他藩の人を城へ近づけないようにしたのかもしれません。平成十年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

石垣と墓地がある街道(須田ノ木町-玖島2丁目)墓地の横を通る街道(須田ノ木町-玖島2丁目)旧長崎街道の道標と交差点(須田ノ木町-玖島2丁目)街道と道標(須田ノ木町-玖島2丁目)

ふたたび墓地のとなりを歩きます。その反対側に古い石垣があります。本当に街道感がある通りです。そして、街道の道標を見つけました。交差点は直進します。

地藏堂(須田ノ木町-玖島2丁目)地藏堂(須田ノ木町-玖島2丁目)起伏が激しい通り。先に見える街道が県道と合流している(須田ノ木町-玖島2丁目)街道を上ると県道257号線と合流、道標もみえる(木場1丁目-久原2丁目)

直進してくると、左側に地藏堂を発見。その先はなかなか起伏の激しい道。次の上り坂の先に県道257号線(大村外環状線)と街道が合流しているのがみえます。

県道257号線と街道の合流点と道標(木場1丁目-久原2丁目)県道257号線と街道の合流点と道標(木場1丁目-久原2丁目)県道257号(街道)を進むと、左に野田神社がみえてくる(木場1丁目-久原2丁目)

坂道を登りきり、県道257号線と街道が合流しました。そのまま真っすぐ歩くと、左側に神社が見えてきます。野田神社です。

野田神社の案内板(木場1丁目936)野田神社(木場1丁目936)野田神社の案内板(木場1丁目936)野田神社(木場1丁目936)

野田神社由来。この地は、室町時代末期の戦国時代、諫早街道警護の要地として、大村藩の出城が設置されたことを起源としている。当時は、足利幕府の威信 地に落ち、全国各地は群雄相争う時代であっただけに、この地は、藩防衛の拠点の一つとして、重要な砦であった。やがて、徳川幕府の時代に移るや、天下統一に伴う「一国一城令」により、 三城の古城とともに、廃城となった。
それから数十年を経た四代将軍家綱の時代の寛文三年(一六六三年)、当時の大村藩主因幡守純長公は、夢枕に立った老翁に、「玖島城の東方の松樹の下に、軍神勧請の霊地あり。すみやかに、社殿を建立し祭祀すべし・・・」との教示を受けた。純長公は早速、居城を出立し、案内役の圓融寺の僧 乗盛を従え、藩内各地を探し回る中に、城の東方、長崎街道の路傍に一株の老松を発見、松柏の枝葉が四方を覆う様は正に夢を現実に映し出した霊地の光景であっただけに、大いに歓喜され、早速、小堂を建立、軍神摩利支天を中央に、左に商業神辨財天、右に、農業神(田の神)大黒天、即ち三天を祭神・本尊とし、藩の天台宗の本山、松林山圓融寺(草場郷、現在の護国神社の地)の末寺と位置づけ、「指月山圓成院城東寺」と、名付け、権大僧都法印乗盛を開祖として、開院した。当時の神社仏閣は、神仏混仰(神と仏が一緒に祭られていた)が常であったことから、藩主因幡守純長公により、肥前鳥居一基が寄進されている。毎年、九月十五日(太陰暦)の例祭には、必ず、藩主自らが参詣し、武運長久・国家安全を祈願する慣例であった。藩主が在府(江戸詰勤務)のときは、城代家老によって代参されたという。この社は、仏教的位置付けは、天台宗の寺院でありながら、神社としては三天社ともよばれ、この地が「野田の里」ともよばれていたことから、「野田神社」ともよばれ、敬愛されてきた。明治維新の大改革に伴う寺社領没収令(明治四年・一八七一年)によって、藩主の庇護を失ったこの社は、後木場(現在の木場一、二丁目)地区の郷民に管理が受け継がれ、祭神から仏教的信仰対象を除外し、正式に「野田神社」として、神祇官(現在の神社本庁)の管理下に置かれ今日に至っている。 昭和五十七年四月吉日 野田神社建設委員会 ※参考文献 大村郷村記、他 古文書多数、地区古老伝聞 例大祭 十月(案内板より引用)

交差点、歩道をまっすぐ進む(木場1丁目-久原2丁目)県道257号線と街道が再び分岐(木場1丁目-久原2丁目)街道が国立病院のそばを通る(木場1丁目-久原2丁目)街道が県道257号線の頭上を東方向へ進む(木場1丁目)

県道257号線と街道が再び分岐します。一枚目の写真、街道が右側の上り坂へ進みます。なお、すぐそばに国立病院があります。病院を素通りして、次に街道は東方向へ進みます。県道257号線の頭上をまたぐ形で橋になっていますが、県道が開通する前は橋ではなくて普通の道だったのでしょう。

橋になっている街道。右側に長崎街道の道標(木場1丁目)街道と道標。左側の下り道が街道(木場1丁目)街道下り坂と道標(木場1丁目)『みさかえの園あゆみの家』が見える。その近くの長い上り坂も長崎街道(木場1丁目)

県道257号線をまたぐ橋に長崎街道の道標(看板)を発見。さらに、その先にある下り坂にも道標を発見。その下り坂を進みます。その際、遠方に『みさかえの園あゆみの家』が見えますが、そのすぐ下を通る長い上り坂も長崎街道です。

立派なお屋敷が目立つ街道の急斜面(木場1丁目-久原2丁目)住宅街を通る街道。前に見える上り坂も街道(木場1丁目-久原2丁目)やがて鈴田川に合流する小さな川(向木場町-木場1丁目)住宅街を曲がる街道(向木場町-久原2丁目)

急カーブと急斜面が続く街道沿いに立派なお屋敷が目立ちます。

国立病院と長崎街道(木場1丁目)

国立病院機構長崎医療センターと長崎街道です。どこが長崎街道かわかりますでしょうか。

長崎街道と、みさかえの園あゆみの家(久原2丁目)長崎街道、舗装された階段(久原2丁目)左へ曲がる(久原2丁目)街道は下り坂へ。このあたりから久原→岩松町

みさかえの園あゆみの家のすぐそばを長崎街道がとおります。とは言っても、さすがに街道らしさは全くないですね。登り坂から登り切って左へ曲がれば次は下り坂。この下り坂あたりから久原→岩松町となり、風景も一変します。

岩松町~みどりあふれる街道

木陰に『みさかえの園あゆみの家』が見える長崎街道の下り坂(岩松町)緑あふれる街道の下り坂(岩松町)次のT字路を右へ(岩松町)長崎街道の道標、クネクネ下り坂(岩松町)

岩松町。道標の案内にしたがいながらグネグネした下り坂を進むと、街道はとてものどかな農村部へ。

長崎街道下り坂と道標(岩松町)長崎街道グネグネ下り坂と道標(岩松町)田畑、農村が見えてきた(岩松町)長崎街道、農村(岩松町)

長崎街道と道標(岩松町)

先へ進むと、またも旧街道の道標を発見。民家を支える石垣が街道らしい雰囲気を作っています。

民家の石垣に街道の雰囲気がある(岩松町)旧長崎街道の道標(岩松町)旧長崎街道の道標(岩松町)立派な石垣の塀(岩松町)街道沿いの民家と石垣(岩松町)岩松公園と街道の道標(岩松町)鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡とその案内板(岩松町)街道沿いの幸田水産(岩松町)

鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡。この番所は慶安二年(一六四九)二月、大坂浪人長井勘兵衛(豊臣秀頼家臣大野主馬の子)を長崎で捕らえたとき、長崎奉行馬場三郎左衛門利重・山崎権八正信の命令により建てられたものです。非常改番所及び制札場の役割を持ち、村外の通行人の改めをしていました。場所は岩松公民館横と思われます。下鈴田庄屋は岩本宅で、村の調整まとめ役の仕事でした。その後、「詰事省略の時、下鈴田庄屋は上鈴田庄屋へ寄村となる」も「文政七年(一八二四)上鈴田庄屋を岩松へ移す(現在の幸田水産)」とあり、番所も兼帯することになりました。(番所は岩松橋側にあった。)また、学制発布により、岩松の庄屋を利用して明治六年一月、鈴田小学校として発足しました。その一部は、役所としての機能もありました。のちに明治三〇年、鈴田村中央部にある平小川郷字茂手(現在地)に新築移転しました。平成二十九年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」(案内板より引用)

次に、日置の峠。どうやらここはかつての旧街道は現在は通れなくなっているようです。

日置の峠。左の坂が本来の旧長崎街道。今は通れないため、右が順路(岩松町)日置の峠。きわめて急な坂道。墓地を通る街道だったよう(岩松町)日置の峠の案内板正面の崖の上を旧街道がとおっている。右側に下り坂が映っている(岩松町)

一枚目の写真、右の道路が現在は街道とされてますが、左の細い坂がかつては街道だったよう。写真四枚目、見切れていますが、日置の峠から降りてくる一つ目の下り坂が映っていました。

日置の峠。ここから旧長崎街道は坂を上がります。登り口脇の岩壁には清水が流れ、かたわらに石像の地蔵がありました。そこで旅人は喉を潤して、旅の安全を願っていたのでしょう。そして墓の下方を通って行くと、右手は高岸になっていて、松の並木がありました。この南向きで日当たりの良い松並木の道を、「日置の峠」と呼んでいたようです。その先、街道は白鳥川の六十メートル程手前で下って、川の石橋へ続いていました。なお、鈴田地区内の鈴田川・白鳥川・稲川内川・針尾川・古松川には、天保九年(一八三八)、一斉に石橋が架けられたそううです。それまでは飛び石で渡っていました。日置の峠は、昭和二十年頃掘られた隧道(第二十一海軍航空廠疎開工場用のトンネル)で寸断されたため、現在は通れませんが、赤道として一部残っています。平成三十年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」(案内板より引用)

『日置の峠』と街道順路の合流点付近(岩松町)左の石垣の手前あたりが『日置の峠』との合流地点とみられる(岩松町)街道と道標・看板(岩松町)旧長崎街道の道標と看板。矢印は小倉方面を向いている(岩松町)

一枚目の左側竹藪&二枚目の石垣の手前あたりに『日置の峠』との合流点があったのではないかと思います(地図を見る限り)。三&四枚目に旧街道の道標がありますが、この通りは旧街道で間違いないはず。(自信あり)

白鳥橋と長崎街道の道標(陰平町)白鳥城跡(大村市岩松町1168-1)白鳥城跡の案内板(大村市岩松町1168-1)街道と民家と高速道路(岩松町)

次に『白鳥城跡』のそばを街道がとおります。実物を見て、思わず「おお…これかぁ…」と声が出てしまうド迫力がありました。

白鳥城跡。この城は、郷村記によると「周囲七町程(約七六四メートル)、高さ三拾間程(約五五メートル)、上の広さは一段一畝程(約一〇九一平方メートル)、背後に横三間(約五・五メートル)、深さ弐間程(約三・六メートル)の堀切(防御のための堀)三カ所がある」と書かれています。城は鈴田の中央に突き出ている山の上に築かれ、北・西・南が断崖状で海の干拓を前にした尾根を成していて、白鳥の生息地だったともいわれています。伝説によれば、戦国時代の前期(一五二〇頃)まで、この地に栄えた鈴田道意の砦の一つだと伝えられています。市内の城跡で三本もの堀切があるのは他になく、宅地造成で城跡が消滅したのは残念です。平成二十九年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」(案内板より引用)

鈴田川をわたり峠を目指す

街道、鈴田一里塚跡と説明板(大里町)鈴田一里塚跡説明板(大里町)アパートの前をとおる街道(大里町)鈴田川と街道(大里町-陰平町)

鈴田川のすぐ近くを街道がとおり、少し進むと一里塚跡があります。

一里塚跡。「一里塚」は、街道に一里(約四キロメートル)ごとに設けられた道しるべの塚のことです。そこに榎や松を植えて、旅の道程の目安にしたり、駕籠などの乗り賃の支払いにも役立てたそうです。また、暑い日には木陰になり、旅人の休憩所にもなりました。鈴田の一里塚には、郷村記によると「榎・松三株」とあり、実際に、榎一本と松二本が植わっていました。聞くところによると、昭和十六年頃までは高さ一メートル、直径五~六メートル位の塚があり、その上に大きな榎が枝を広げていました。根元から枝分かれしていて登り易く、子供の遊び場にもなっていました。そして一本残っていた松も、昭和二十一年頃に松枯れ病のため切り倒されるまで、高くそびえ立ち、その位置を遠くまで示していたそうです。平成三十年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」(案内板より引用)

長崎街道と道標。奥に国道34号線と街道の交差点がみえる(大里町)長崎街道、かつては左、今は右へ(大里町)長崎街道と道標(大里町)国道34号線をわたって街道を進む(大里町)

道標に沿って街道を進むと、国道34号線を越えて、線路の下をとおって進みます。(なお、実をいうとのこの通りは、正確には当時の街道とは少し違うところを通っているそうです。本来の道は現在では住宅街となっていて、もう通れないとのこと。)

国道34号線をわたって街道を進む。先に鉄道が見えるが、その下し街道が続いている(大里町)線路の下を街道がとおり、次は東方向へ曲がります。道標も映っています(大里町)線路と並走する街道。本来の旧街道は➡の方向(大里町)「旧長崎街道」の道標(大里町)

一枚目に道標が設置してあります。線路の下をくぐると(左・東方向)へ曲がります。次の道を直進すると「旧長崎街道」の道標があります。そして、また曲がります。(この道も正確には旧・長崎街道ではありません。かつては、4枚目の道標が設置してある所を北に直進していたようです。)

長崎街道、奥に大神宮神社、手前に神社がみえる(大里町)街道沿いの神社(大里町113-2)長崎街道(大里町)大神宮神社の門と石垣を横から見る。とても年月を感じる立派な石垣(大里町106)

(ここからは本来の旧・長崎街道と全く同じ道です)次の通りは、神社が二つありました。奥の神社は『大神宮神社』、手前の方が特に案内板などは見つけることができず、名称は分かりませんでした。わかり次第追記致します。

大神宮神社の鳥居を階段の途中から眺める(大里町106)大神宮神社の階段を登って下を眺める。鳥居がみえるく(大里町106)大神宮神社の階段を登っていく(大里町106)入母屋造りの拝殿(大里町106)

『大神宮神社』に参拝して参りました。写真で鳥居・石垣・階段を眺めてみてください。長い年月の経過をうかがわせます。

大神宮神社。この社地には、江戸時代まで「古松権現(こまつごんげん)」と呼ばれる神社がありました。建てられた時期は不明ですが、天正二年(一五七四) キリシタンの社寺焼き討ちに遭い、その後、寛永一三年(一六三六)藩主大村純信によって再建されました。江戸時代を通じて、この古松権現の日常の社務は、そのすぐ下にあった修験道の坊・大乗院の山伏によって行われていました。明治三年、大村藩による神社改正が行われた際、鈴田岸高の伊勢山に祭られていた大神宮が、この古松権現の社に移され、一緒に祭られることになりました。同時に神社名も「大神宮神社(だいじんぐう)」に変わりました。岸高の伊勢山にあった大神宮は歴史も古く、江戸時代初期の天和年間(一六八一~一六八四)には、すでにその地に鎮座していました。祭神は天照大御神(天地の万物を照らす大神)という女性の神様で、農業全般にご利益があるほか、縁結びの神様としても知られています。平成二十九年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」(案内板より引用)

さて、大神宮神社を後に、次に進みます。

大神宮神社(大里町106)長崎街道(大里町-中里町)案内板。ルートについて書かれてある。この辺りは一部、ルートが当時とは違うとのこと(大里町-中里町)

旧長崎街道。この付近は、休憩所があった場所で、往来の人々が足を休めました。現在、大神宮が建っている場所には江戸時代古松権現という神社があり、藩主大村純信に再興された神社です。明治になり、他の神社とあわせて大神宮となりました。ここから城下へと続く道は、鈴田川沿から武家屋敷の脇を通っていきますが、この大神宮前から国道までの間の道は住宅が建ち現在では無くなっています。また、ここから諫早藩へと越えていく山道は、当時の景観が極めて良く残っている場所として、文化庁により「歴史の道百選」に選ばれています。平成十年三月 大村市教育委員会(案内板より引用)

鈴田峠を目指す坂(中里町)

一気に坂がきつくなりました。ここから鈴田峠を目指す坂が始まるようですね。

今回はここまでとさせて頂ます。続きはまた後日、きっと公開します。しばしお待ちください。
ここまで見てくださってありがとうございました。

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