東長崎地区の長崎街道
『長崎街道めぐり』続きを追加します。
今回は東長崎地区を訪れ、長崎街道の「中里町」から日見の「腹切坂」まで散策して参りました。なお、この記事には後から、まだ写真を追加していく予定です。
中里町
今回はJRの市布駅の最寄の箇所、中里町から長崎街道を散策します。
市布駅を出て国道34号線に入って南下、間もなく左折(東方向)へ進むと、長崎街道へ入ることができます。目指すは長崎方面ですので、南方向へ進みます。
第一印象、庭木がとてもキレイです。
古賀の藤棚
少し進むと、「古賀の藤棚」という、茶屋跡があります。藤の咲く季節に来るとまた違った雰囲気が楽しめるでしょうね。(案内板より引用)
古賀の藤棚。郷土人形として有名な古賀人形を制作する小川家の前には大きな藤棚があります。ここはかつて、長崎街道を通る諸大名や旅人たちの休憩所となった茶屋でした。この古賀人形は、小川家の3代目が農業のかたわら神仏用品の土器をつくり、晩年に小型の人形を製造するようになったのが発祥といわれています。
どのおうちも本当に庭木がキレイです。庭園のような空間・階段を発見。とてもオシャレです。そして、前方に赤い頭巾を着たお地蔵さんが見えてきました。
地蔵菩薩
小さな川と小さな話の近くにとても大事にされたお地蔵さんを発見。「地蔵菩薩」とあります。何やら不思議な歴史があるようですので、下記に引用します。
この地蔵菩薩について、昭和38年(1963)発行の東長崎町誌に、次の内容が紹介されています。
『昔、城山に多くの兵が集まって陣をしいていたころのことである。ある年の9月半ばの朝、敵兵が城山に向かって進んで来た。ちょうどこの地蔵菩薩付近の小川にさしかかった時、一人の女性が洗濯をしていた。これを見た敵の大将が「敵陣はまだ遠いか。」と尋ねると、女性は「もうすぐそこ3、4町(約300~400m) ばかりのところです。」と答えた。大将は喜んで「そうか、3、4里(12~16km)か。」とひとりごとを言って、安心してここを通り過ぎた。そして、城山が見えるところまで来たとき、弓矢がたくさん飛んできた。敵兵が「しまった。」と思った時には、城山から兵がどんどん現れ、激しい戦いが始まった。敵は不意の攻撃を受け、多くの死傷者を出し、敗退した。敵の大将が、追撃を逃れてもとの小川にさしかかると、まだ女性が洗濯をしていた。大将は、「嘘を言ってけしからん。」とその女性を切り殺してしまった。そして、大将は少し山手に入ったところで切腹した。その地は「刀腹(たちばら)」と呼ばれている。
その後、小川のほとりに、毎晩火の玉が出るようになった。これを見た人々が、「あの火は、殺された女の人の霊だ。何とかして慰めよう。」と石の地蔵菩薩を作り小川の側に祀ると、その後火の玉は見えなくなった。土地の人々は、この小川を地蔵川、川にかかる橋を地蔵橋と呼ぶようになった。』
現在の地蔵菩薩像は、昭和5年(1930)に再々建されたもので、地元の人々により大切に守られており、毎年、11月24日には地蔵祭りが行われています。
長崎市(2019年1月設置) (案内板より引用)
殺害された女性がとても気の毒ですね。慰めがしっかり届いている事を願います。
次に進むと、一里塚跡。
中里ふれあい公園の入口、道標、平木場川と鎧橋。鎧橋は名前の由来が気になります。先ほどの地蔵菩薩に関係があったりするでしょうか。四枚目は、右側の擁壁の上を国道34号線が走ります。
ここで左側に八郎川が現れます。この八郎川とともに街道を下って行くこととなります。街道は二枚目の正面のお家の右側の道を進むこととなりますが、その前に、八郎川の見事な桜をパシャリ(三・四枚目)。
道標を発見。そして、桜が見事です。
中里町はこの通りまで、次は古賀町。
古賀町~川沿いの街道を進む
古賀町に入りました。福瑞寺の前の通りです。案内板によればキリシタンとの関連のある寺院とのこと。
古賀。古賀地区では、キリスト教の伝来以降信仰が盛んになり、ルイス・フロイス著の『日本史』によると、文禄2年(1593)頃には全住民がキリシタンであったとされています。しかし、慶長17年(1612)に出された幕府の禁教令によって、キリシタンへの徹底した弾圧がなされ、この地においてのキリスト教の信仰は歴史の表舞台から姿を消しました。福瑞寺は、この地区のキリシタン撲滅に努めた僧、正哲の功績を賞し、寛永3年(1626)に建立された寺です。境内には花十字紋入りのカマボコ型であるキリシタン墓碑が残されています。この墓碑は被葬者をはじめ、製作者や年代は不明ですが、キリスト教がこの地でも信仰されていたことを物語る貴重な資料といえます。また、この地区は植木の産地として有名です。古賀の植木は、元禄時代(1688~1703)に、同地区の松原名の西山徳右衛門が各地の植木盆栽を研究し、売り出したのが始まりで、六代目の徳兵衛の頃には海外にも輸出されるようになりました。(案内板より引用)
「古賀の植木」のくだりを読んで納得です。道理でこの付近のおうちは庭木がすごいキレイだと思ってました。
次に進みます。が、その前に、下記に(街道、少し先の役行者神社の)案内板を切り取り引用します。
ここから先の街道は、かつて旧・長崎街道と全く同じ道は一部を遺して消滅しているそうです。
この後、上記の画像・右地図に記される赤点字のルートと、神社と領境石もある迂回・散策ルートの両方を歩きます。(かつての道を可能な限り探しつつ)
八郎川とともに南下していく
慶正庵橋をわたり八郎川の向こう側へ進みます。さっそく道標を発見。そして、その先にとてもキレイな街道があります。


素晴らしい桜に目が行ってしまいますが、肝心の街道は、この田んぼの中を通ってたんじゃないかとも思っています。(画像右・案内板の地図によれば街道は現在の迂回・散策ルートの少し内側を通っていたようです)
川沿いのルートを歩いていると石碑を発見。「古賀キリシタン殉教地」です。
古賀キリシタン殉教地
キリシタンの歴史と殉教の事実を語り継ごう 古賀殉教地
・1549年ザビエルのキリスト教伝播以来、1570年頃にはキリシタン大名、有馬氏の保護を受けて、古賀を中心とする東長崎地区にはキリスト教が栄えた。
・1612年幕府の直轄領における禁教令以来、1616年松倉豊後守重政が島原・古賀を支配下においてからは、徹底したキリシタン弾圧が行われた。
・捕えられ厳しい拷問を受け続けてもそれに耐え、殉教者達は信仰を守り通して帰天した。
・福者 ヨハネ荒木勘七は雲仙の地獄責めにより、ヨハネ孫助一家3人は首を竹鋸切りでひかれて殉教した。
・1630年代以降には、古賀地区のキリシタンはほとんど絶えてしまった。明治政府によって信教の自由が認められたのは1873年のことである。
カトリック東長崎教会(案内板より引用)
こんなのどかな所に、こんなかなしい歴史の跡地が。かなしい歴史を秘めた土地ほど、今はとても静かで優しい空気に包まれている、という持論があります。
そして、次へ進みます。
「長崎街道 右へ」の手作り道標
さて、ここで「長崎街道 右へ」と書かれた手作りの道標を発見しました。「右」は分岐ルートになりますがいったんスルーして(笑)、先へ進むと、再び「長崎街道」の手作り道標、さらに進むと道標を発見(六枚目)。五枚目の道をまっすぐ進むと「迂回ルート」で、橋を渡り右へ行くと「川向いルート」。六枚目の時点で「右へ」の看板のルートと合流しています。
ここで、再び「右へ」の看板からのルートの写真。
先ほどの「右へ(古賀町404付近)」の道標に従い右に行くと、グーグルマップで「長崎街道」と記された道に合流します。しかし、そのルートでは道標を見つけることはできず…、かつ、先ほどの慶正庵橋付近で見た(「川沿いを進む」「迂回・散策ルート」と記された)道標とは道も食い違います。この辺りの詳細は、分かり次第、追記します。
しかし、この「右へ」ルートを進んでも、どのみち、同じ所に合流します。
川向いルート(古賀町)
ここから街道は、「領境石」と「役行者神社」がある「迂回ルート(造語)」と、本来の街道であるが道が途切れている(と案内板に記される)「川向いルート(造語)」、に分かれています。
※注意、この「川向いルート」という呼称は私の造語であり、一般的に使われている呼称ではありません。また、「迂回・散策ルート」は案内板でも使われている呼称ですが「迂回ルート」は造語です。迂回ルートは川向いルートの対義語として使いますね
先に上の写真の「川向いルート」を歩きます。撮影者が立っている手前が川向いルート川の向こう側が「迂回ルート」。
一枚目、おそらく三角州の手前あたりを飛び石があったのではないでしょうか。二枚目、しばらく進むと飛び石があります。ちゃんと迂回ルートへ渡れます。(なお、場所はかつてのモノとは違う場所でしょうね)。川向いルートからは役行者神社が見えます。
そして、再び川の向こう側(現・迂回ルート)へ戻りますが、どのポイントで戻っていたのかは特定できず。四枚目のポイントだと、迂回ルート側は当時は土砂崩れが起こりやすかったでしょう。もう少し進んでから移ったはず。五枚目付近と推測します。
迂回ルート(古賀町)
ここで上記の五枚目のポイントからいったん戻り、迂回ルートを歩きます。このルートは本来のかつての街道とは違う道を進むことになりますが、「従是南佐嘉領の領境石」と「役行者神社」はこちらのルートにあります。観光するならこちらの方が好いかも。
八郎川沿いに街道がとおります。とてものどかな風景。しかし、車の交通量は意外に多いです。(なお、この道標が立っているところは本来の街道とほぼ同じ場所だと思われます。道標の辺りから飛び石で川向いルートに移っていたのでしょう)
従是南佐嘉領の領境石
道を進むと「従是南佐嘉領」と記される領境石を発見。そして次に「役行者神社」にさしかかります。
役行者神社
先述していた案内板はここにありました。地図がありますが、そこに本来の長崎街道の道筋(赤点)が記されています。地図には「道は切れています」と書かれていますが、しかし、所々道が残っていました。
楠川の渡し。八郎川の上流に楠川(古賀川・樟木川)と呼ばれる支流があり、旧長崎街道はここ役行者神社付近から、この川の飛び石を渡って川向いを通っていました。かっては楠川のそばの古賀村と矢上村の境に一本の大楠があり、人々に親しまれていました。役行者神社の「役の行者」とは、「役の小角」という奈良時代頃の人で、奈良の葛城山で荒行を積み、吉野の金峰山で霊感を修得して呪力を身に付けたといわれ、後に山岳信仰が盛んになると、修験者の祖師として信仰されるようになりました。この神社から街道を少し北側に向かうと、右手に「従是南佐嘉領」と書いた領境石標があります。(案内板より引用)
次へ進みます。
次の写真の二枚目からは本来の街道を歩いているハズです。が、ここから長崎街道が行方不明になることが増えてきますので、一部、推測で歩いていますので、ご了承ください。
東町~分断された道を推測で進む
街道が工事で分断されておりました(黄色と緑のフェンスが目印。三枚目と四枚目が分断された道の両端)。この後、しばらく街道の目印のない道が続いたのち、また街道が分断され、行き止まりとなります。
街道が高速道路(長崎大分線)の下をくぐった辺りで街道が寸断されています。よって、迂回して街道に進みます。すると、やっと道標を発見。
分断された街道を両端から望む(ただし、両端から互いの街道は見えない)。二枚目に道標が映っています。
先ほどの分断されている街道は工事中となっていました。ひょっとしたら、順路が整備されているのかもしれません。そして、街道(車道ですが)を進むと道標を発見。ここからほんのいっとき街道(車道)がとても広くなりますが、すぐに細い路地へ入ります。
街道は、広い車道から右折(西方向)し細い路地へ、住宅の間をとおって行きます。
この辺りは本来の街道とは道の形が変わっています。四枚目の正面に民家がありますが、ここは数年前までは民家がなく、直線道路でした。
街道がコンビニにふさがれている
街道を進むと車道にぶつかりますが、すると、コンビニに道を塞がれています。推測ですが、きっとここは直線だっただろうと思います。なぜかというと、コンビニの真後ろにピッタリと直線が進んでいるからです。(地図で見ても、街道とキレイに直線で繋がります)
なお、コンビニの真裏の直線と並走する形で、八郎川沿いをとおる直線もあります。こちらはキレイに桜が植えられており、景観はこちらのほうが良いです。
どちらの道を歩いても、進む先で街道に合流します。
長龍寺公園という「長龍寺」というお寺があったとされる場所をとおると、長崎街道の道標を発見。そして、長龍寺橋を渡り、街道は矢上町へすすみます。(なお、長龍寺については特に案内板などは見つけることができませんでした)
八郎川をわたり矢上町へ
八郎川をわたり矢上町へ。街道は細い路地へ入るのですが、その前に、小さな手作りの「長崎街道」と書かれた可愛らしい看板を発見。ここが街道であるということが分かって一安心。
そして、ここからはこの手作りの看板をちょくちょく見かけることとなります。
手作り看板から真後ろを向くと、細い路地があり、それが街道です。おもむきのある民家をとおりすぎると、街道を国道34号線が横切ります。
横断歩道を渡り、国道を横切ると街道はふたたび細い路地へ入ります。
とくに目印も見つけられず街道を歩いていると、ここで「長崎街道・島原街道の要衝」の案内板を発見。なかなか案内板の痛みが目立ちますが、下に内容の引用文を記述します。
ここの交差点が長崎街道と島原街道の交差点(T字の交差点)のよう。なお、一枚目の写真に写っている奥に進む真っすぐの道路は島原街道でも長崎街道でもない。(紛らわしい写真の撮り方をしてしまいました)
三枚目、島原街道と長崎街道が合流した道をそのまま進みます。
島原街道。長崎街道・島原街道の要衝、矢上。長崎街道・島原街道の交差点、矢上は、長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町です。佐賀藩の配下である諫早領の支配地で、長崎奉行支配の日見村と境を接していたので、矢上の宿には佐賀藩の番所があり、番所役人が取り締まりや警備に当たっていました。矢上宿には旅宿があり、馬や駕篭人足などが常時用意され、また、造酒屋・各種の店・鍛冶屋などがあり、昔より矢上の宿は近隣の村々の中心地として栄えてきました。島原街道は、島原藩主が長崎警備のために通った街道でしたが、船便を利用すると、比較的容易に天草や熊本、鹿児島方面に行けたため、多くの旅人にも利用されたようです。元治元年(1866年)には、幕命を受けた勝海舟と坂本龍馬らの一行が、この街道を通りました。 「海舟日記」では、復路の一行は矢上で昼食を取ったと記されています。(案内板より引用)
お菓子屋さんや中華料理屋さんが並ぶ通りで、矢上神社に到着しました。
矢上神社
比較的よい時期に来たおかげでシダレ桜がキレイでしたので、似たような構図で何枚か写真を撮ってしまいました。
矢上神社をあとに、次へ進みます。
矢上八幡神社と大クス
さらに、ここで神社を見つけました。「矢上八幡神社」とその大クスです。
とても大きな二本の大クスが目立ちますが、その真ん中に鳥居が立っています。五枚目の写真の大クスが北側、六枚目の写真の大クスが南側の木です。
矢上八幡神社の大クス。この2本のクスはまれに見る巨樹で、市の天然記念物に指定されています。巨樹・巨木林調査では、地上高1.3mの幹周りが12.6mあり、県内で2番目に大きな木でした。この神社は、寛文7年(1667年)の建立で歴史あるものですが、このクスの木はそれ以前のものと思われます。環境省 長崎県(案内板より引用)
市指定天然記念物 矢上八幡神社の大クス 指定年月日 昭和44年6月15日 クスノキは、暖地性の樹種で、わが国では関東地方以西に広く自生している。九州には、国指定天然記念物の巨樹も多い。わが国の広葉樹中もっとも長命で、1,000年を越えるものがある。ここのクスノキは、樹齢は不明であるが、北側のものは胸高幹囲10メートルをこえる県下有数のクスの巨木である。南側のものは胸高幹囲5.3メートルであるが、両木共に数本の支幹を出し、枝張りも広い。長崎市教育委員会(62.12設置)(案内板より引用)
次へ進みます。
ここでも「長崎街道」と書かれた手作りの看板を見つけました。
自治体が設置した道標があまり見当たらないので、こうした手作りの道標があるのは助かりますね。
矢上小学校です。案内板によれば、この付近に脇本陣があったとのこと。
そして、国道沿いに本陣跡があり、現在は自動車学校になっているとのこと。とても立派な石垣があるところですね。写真はないです、すいません。
本陣と脇本陣。国道を隔てた現在の長崎自動車学校の所に矢上宿の本陣がありました。佐賀藩内では御茶屋とか上使屋といい、長崎警備のため往来する大名や幕府関係者の宿泊や休憩所でした。広大な敷地に豪壮な建物があって、便所も床付き漆塗りが施されていました。しかしながら、明治はじめごろ民間に払下げ、解体されました。ここ矢上小学校付近には、脇本陣があり、人馬継ぎ所等の宿の施設がありました。(案内板より引用)
矢上番所跡
ここは番所跡(警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設)です。現在はレストランになっているようですね。三枚目の古写真は案内板のものを切り抜かせて頂きました。
番所橋。矢上番所は、長崎街道の要所で平屋瓦きの建物と門があり、弓矢・槍・鉄砲等を置くなど、役人が往来者の警備や取り締まりを行っていました。その脇にある番所橋は天保9年(1838)に佐賀藩により架設されました。慶応3年(1867)の洪水により流失しましたが、この石材を使って明治初期に再架設、そして、大正12年(1923)に鉄筋コンクリートで架設され、現在の橋は、昭和61年(1986)10月の架設で由緒ある如く、擬宝珠の親柱になっています。(案内板より引用)
矢上番所跡。江戸初期頃の矢上番所は、矢上宿のはずれ、田ノ浦川畔にありました。旧矢上村は佐賀鍋島藩の諫早領で長崎代官の支配地と境界を接していた場所であり、矢上宿は長崎の東の玄関口で、長崎街道と島原街道の合流点でした。そのため、ここに番所を設置して、役人達が長崎に向かう武士や学生、商人など、往来者の取締りや警備にあたりました。(案内板より引用)
田中町
ここで、またも手作りの道標(看板)を発見。なお、ここからは田中町になります。
濱之大王神社
またも神社を見つけました。「濱之大王神社」です。
案内板によると、なんとこの付近は江戸時代までは海であったそうです。
濱之大王神社は、矢上神社の分社であり、もとは濱ノ大王権現と称していました。矢上神社は江戸時代には大王社または大王権現と呼ばれていましたが、1872年(明治5)に現在の社号に改称しました。創建当初、この付近は海であったといわれていますが、1760(明和)年代頃に埋め立てられたようです。長崎街道として利用されていたこの道は、明治11年(1878年)に明治新道として拡幅されました。この神社では、明治14年(1881)頃から数年の間、神輿の御遷渡が行われていたという記録があります。現在、地元の東望自治会の人々によって大切に祀られています。(案内板より引用)
そして、街道は国道34号線と合流します。が、すぐにまた細い路地へ分岐。
東長崎教会が目立ちますね。そして、細い街道を進みます。
少し進むと、アパート(合同宿舎東長崎住宅)と道標を発見。さらに少し進むとまた道標を発見。アパートに沿って左折(南方向)しますが、その角のフェンスにも手作りの看板を発見。
今回は地図まで書かれており、現在地と進路まで確認できました。
ゆるやかな上り坂の街道を進み、ここで道標を発見。ここから上り坂は厳しくなります。
急な坂道が続きますが、振り返るととても良い眺めが望めます。なお、途中に一部だけ石垣が残っていました(写真一枚目)。細い坂道を登りきると石碑と案内板を発見。
従是北佐嘉領の領境石
「従是北佐嘉領」と書かれている石碑を発見。案内板も設置されていますが、なんと板がボロボロで読めません。。ここからも旧街道の「順路」は続きます。(が、本来の街道とは違う可能性があります。次の住宅地帯を抜ける階段から、後述の腹切坂を抜ける下り階段あたりまで)
階段を下るとここからも街道(順路)が続き、当然、道標も設置されています。
街道(順路)を進むと国道34号線を横切ります。横断歩道を渡るとそのまま街道がつづき、「日見腹切坂の石碑と看板」があります。
日見腹切坂
長崎街道、日見腹切坂の由来について。熊本細川候の家臣某、長崎より熊本へ帰郷の際、つづれ組の高名を聞き途中一手の試合を申し込んだ。その結果は、意外にも武士は敗れ、その昔は、武士なれど今は町人の作右衛門の棒術に凱歌が揚った。彼の武士は、如何にしても無念、やる方なく宿部落を見おろす場所で、武士の面目上とうとう腹を切って果てた。村人は、哀れに思い、この武士を丁重に葬ったのである。ここを腹切坂と呼ぶようになった。ここにある三基の石碑は、旧長崎街道(日見宿町)にあったものを日見バイパス建設工事のため現地点に平成十四年三月に移転した。日見腹切坂史跡保存会(案内板より引用)
腹切坂を進み「日見峠道浪漫」の案内板と「ハーレーダビッドソン長崎」の前を通ると、そのすぐ近くの細い坂を下ると、再び細い街道らしい道へ入ります。
さて、今回はここまでと致します。それではまた。










































































































































































































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